トリビアラジオ 話したことの一覧

ライブ配信で話した雑学と、その出典・読み上げ原稿の一覧です。

話の内容は AI が Web で調べて自動でまとめたもので、誤りや諸説あることを含みます。気になった話は出典で確かめてください。

1 回の配信、122 話

2026年10月19日(月) 11:32〜

122 話

  1. 秋の柿、夏に塗料へ

    夏に収穫する渋柿から作る柿渋は、塗料や清酒の澄ましに使われた。

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    読み上げ原稿

    ねえねえ、秋の柿が、夏には家を守る塗料になってたって知ってる?

    食べる柿じゃなくて、青い渋柿から作る柿渋っていう液体の話なんだ。しかも収穫は秋を待たずに、タンニンが多い8月のお盆ごろなんだって。

    柿の渋みの正体は、水に溶けるタンニン。口の中がきゅっとなるあれね。渋柿をもいで、砕いて、発酵させて、しぼって、寝かせてから詰めると柿渋になる。

    柿を寝かせるって聞くと、布団をかけておやすみってするのかと思うじゃん。違う違う、液体を貯蔵して落ち着かせるんだよ。柿に枕はいらない。

    できた柿渋は、化学塗料が広まる前、家の外壁や縁側、板塀に塗られてた。防腐と防水を助けるから、木に雨よけのレインコートを着せる感じだね。

    提灯や唐傘、団扇、型紙にも使われたらしい。柿って果物なのに、暮らしの裏方までやってたわけで、担当業務が多すぎる。

    埼玉には赤山渋っていう柿渋があって、江戸時代中期以降、足立郡の赤山領、南部領、見沼領を中心に作られたんだ。製造道具98点と渋小屋も文化財として残ってる。渋小屋の話は、また別の機会に取っておこう。

    ちなみにさ、渋柿はアルコールや炭酸ガスで処理すると、タンニンが水に溶けにくくなって甘く食べられるようになる。干し柿で渋みが抜けるのも、同じ方向の変化なんだ。

    話戻るとね、柿渋のタンニンは清酒の中のたんぱく質っぽい濁りと反応するから、お酒を澄ませる用途にも研究されて使われた。甘い柿、渋い柿、家の壁、お酒まで担当してて、もはや柿の勤務表が心配になるね。

  2. チョウチンアンコウの発光弾

    チョウチンアンコウは頭上の発光器から発光液を噴くことがある。

    出典
    読み上げ原稿

    柿の担当業務が多すぎるって話から、提灯にも使われたって聞くとさ、今度は本物の提灯を頭にぶら下げる魚を思い出すんだ。チョウチンアンコウだよ。

    名前の由来は、頭の上から伸びる細い突起の先にある発光器、エスカが、明かりの入った提灯みたいに見えるからなんだって。深海で提灯を持ち歩く魚、停電の心配だけはなさそうじゃん。

    その細い突起はイリシウムといって、じつは背びれの第1棘が変形したものなんだ。背びれの骨が、釣りざおみたいな道具へ作り替えられた感じだね。

    雌は暗い深海でエスカを光らせて、獲物を誘うと考えられている。深海性アンコウ類の多くでは、エスカの中に1種類の発光バクテリアが住んでいて、その光を使うんだ。

    しかも1967年、鎌倉の海岸に打ち上げられたチョウチンアンコウが、江の島水族館で8日間飼育されたことがあった。そこで世界で初めて、エスカから発光する液体を噴き出す様子が観察されたんだ。

    頭の提灯は、ただ光るだけじゃなくて発光液まで発射できたわけ。獲物や外敵の目をくらませる効果があると考えられていて、深海の小さな魚にとっては、懐中電灯と目くらましスプレーを一体化した装備みたいなものだね。

    ちなみにさ、その1967年の個体は標本になって、新江ノ島水族館で展示されているんだ。当時の飼育係には、発光液を最初に見た瞬間、驚いて水槽の前で何歩下がったのか、どうでもいいけど聞いてみたくなる。

    話戻るとね、その発光液が獲物を呼ぶためなのか、敵から逃げるためなのか、どちらにどれほど役立つのかは諸説あるんだけど、光る液を噴くところまでは実際に見つかったんだ。

    アンコウって、雄が雌にくっついて暮らすイメージも強いよね。でもそれは深海性アンコウ類の一部の特徴で、チョウチンアンコウ科の雄は雌よりずっと小さいものの、雌に寄生せず自由に暮らすって言われてるんだって。

    雄からしたら、勝手にくっつく係へ配属されたと思われがちで、少しだけ不本意かもしれない。頭上の提灯、発光液、自由生活の小さな雄までいて、チョウチンアンコウの勤務表もなかなか過密だね。

  3. 鎌倉大仏はなぜ屋外に?

    鎌倉大仏は昔は大仏殿に覆われ、1498年以前から屋外だった。

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    読み上げ原稿

    チョウチンアンコウの勤務表が過密って話から、鎌倉の大仏もなかなか休む間がなさそうだなって思ったんだ。あの鎌倉大仏、実は最初から青空の下にいたわけじゃないんだよ。

    高徳院にある国宝の銅造阿弥陀如来坐像は、1252年8月17日に鋳造が始まったと吾妻鏡に記されてる。高さは11.39メートルで、重さは約122トンもあるんだ。

    122トンって聞くと、鎌倉じゅうの猫が一斉に大仏を持ち上げる大運動会かと思うじゃん。もちろん無理だね、猫には予定がある。

    昔はこの大仏を覆う大仏殿が建っていて、発掘では礎石を支えるために地面を固めた跡も見つかってるんだ。復元すると幅約44メートル、奥行き約42メートルという、かなり大きな建物だったらしい。

    しかも大仏を作る時には、周りに土を盛った痕跡も残っていたんだって。大きな像を作るための足場を、料理でいうなら巨大なケーキの型みたいに周囲へ組んでいった感じだね。

    その大仏殿は1305年ごろに倒れ、1334年と1369年にも大風で倒壊した記録がある。1369年より後に再建された記録は見つかってないんだ。

    ちなみにさ、大仏の胎内には入れるんだよ。中に入ると、巨大な像を部品ごとに鋳造して組み上げた技術を、外からじゃなく内側から見られるんだ。

    話戻るとね、鎌倉大仏が屋外になったのは1498年の明応地震と津波で大仏殿が流されたから、ってよく語られるんだ。だけど、そこには少し引っかかるところがある。

    禅僧の万里集九は1486年に訪れた時点で、堂がなく露坐、つまり屋外に座っていたと書いてる。だから少なくとも地震より前には、もう屋根のない大仏だったわけ。

    最後の大仏殿を津波が失わせたという説明は、史料とは合わないんだよね。屋根は瓦片が出ていないから、杮葺きか檜皮葺きだった諸説あるんだけど、そこも含めて建物の姿にはまだ想像の余地がある。

    何度も倒れた建物は消えて、大仏だけが空の下で何百年も座り続けてる。鎌倉の天気予報を、いちばん長く体で受け取ってるのはこの人かもしれないね。

  4. 浜名湖うなぎの始まり

    汽水化した浜名湖が近代的なうなぎ養殖の発展を支えた話。

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    読み上げ原稿

    鎌倉大仏が何百年も受けてきた天気予報、その雨や海の変化の話で思い出したんだけど、浜名湖は昔から海とつながっていたわけじゃないんだ。1498年の明応東海地震と津波で今切が開いて、それまで淡水湖だった湖が海水の混じる汽水湖になったとされるんだよ。

    その浜名湖が、近代的なうなぎ養殖を各地へ広げる足場になったんだから、水の性格が変わると仕事まで生まれるんだね。うなぎを養殖するって、うなぎを大事に育てて甘やかすことかと思うじゃん。違う違う、池で大きくして出荷できるサイズに育てることだよ。

    日本で最初に試みたとされるのは1879年、東京の深川千田新田で服部倉治郎が約2ヘクタールの池を使った養殖なんだって。初期に育てたのはクロコという、体長15センチほどの幼魚だった。

    網に掛かっても商品にならず、捨てられがちだった小さなうなぎを池に入れて、売れる大きさまで育てたわけ。捨てられそうだった素材を、時間をかけて主役にする感じで、台所の余り野菜を立派なカレーにするみたいな発想だね。

    浜名湖の近くでは1891年に、原田仙右衛門が今の湖西市で約7ヘクタールの池を使い、うなぎとコイの養成を始めたんだ。温暖で水と土地を確保しやすく、東京と大阪の間で運びやすいことも、養殖地として育った理由なんだよ。

    服部倉治郎も浜名湖沿岸へ進出して、8ヘクタール規模の養鰻池を設けたとされる。浜名湖での成功が、池でうなぎを育てるやり方を各地へ広げる後押しになったんだ。

    ちなみにさ、昭和初期には湖岸の養殖池が約600ヘクタールにもなったのに、戦後はいったん約20ヘクタールまで縮小したんだって。池たちからしたら、急に大所帯になったあとで、ずいぶん静かな職場になったなって感じかもね。

    話戻るとね、服部倉治郎が浜名湖へ進出した年は諸説あるんだけど、全国団体の年表では1897年、浜松市史などでは中村源左衛門正輔と共同で養鰻場を造った1900年とされる。着手した年を数えるか、事業として形になった年を数えるかで、答えが揺れるんだよ。

    地震と津波で海とつながった湖が、何百年か後にはうなぎを育てる場所になる。水辺の歴史って、景色だけじゃなく食卓までこっそり書き換えてくるから、なかなか油断できないね。

  5. シウマイ弁当の誕生

    横浜生まれのシウマイ弁当と、冷めても楽しめる工夫の話。

    出典
    読み上げ原稿

    浜名湖の水辺が食卓を書き換えたって話から、横浜駅の駅弁も思い出したんだ。駅で買うごはんって、移動中なのに地元の看板を背負ってるよね。

    横浜のシウマイ弁当は、1954年に横浜ならではの駅弁を目指して生まれたんだって。主役がシウマイという、白いごはんの上に堂々と立つ構成なんだ。

    作ったのは崎陽軒で、もともとは1908年、今の桜木町駅にあった初代横浜駅の元駅長が始めた会社なんだよ。駅を知り尽くした人が、今度は駅で食べるものを作ったわけ。

    しかも主役の昔ながらのシウマイは、弁当より先の1928年発売。豚肉に干帆立貝柱を合わせて、冷めても食べやすい味にしてあるんだって。

    温かい料理をそのまま持ち歩けない時代の駅弁では、冷めたあとにちゃんとおいしいかが大事だったんだろうね。お弁当は、家を出る前から終点まで味の持久走をしてるからさ。

    発売当初から、シウマイだけじゃなく焼き魚と玉子焼き、横濱蒲鉾、酒悦の福神漬けも一緒だったんだ。定番のおかずをそろえつつ、横浜の顔を真ん中に置いたんだね。

    ちなみにさ、1955年にはしょう油入れがガラス瓶から、ひょうたん形の磁器になったんだ。そのひょうちゃんに48種類の顔を描いたのは、フクちゃんの作者でもある横山隆一なんだって。

    48種類なのは、いろは48文字にちなんだ数。ひょうちゃん、顔が多すぎて、池たちの静かな職場どころじゃないね。

    話戻るとね、同じ1955年に崎陽軒は駅弁へ簡易お手ふきを添えるサービスも始めたとしているんだ。食べる前の手元まで整えて、移動中の食事を支えたわけだ。

    駅弁は箱の中だけじゃなく、食べる人の動きまで考えて完成するんだね。シウマイ弁当を開けたら、駅長の目配りがまだちょっと残ってる気がするよ。

  6. 渋小屋、柿渋の工房

    酒造りにも使われた柿渋を作る渋小屋と赤山渋の歴史。

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    読み上げ原稿

    酒悦って名前から酒造りの道具まで連想が伸びちゃったんだけど、もろみを搾る布袋には柿渋が使われたんだ。布を丈夫にして、ろ過にも役立てたらしいよ。

    あのお弁当の名前の向こうに、柿渋の工房までつながってるわけ。前に保留した渋小屋、ここで回収しよう。

    渋小屋は、渋柿を集めて柿渋を作る農家や工房のこと。柿もぎ、粉砕、発酵、圧搾、貯蔵、詰立の順で、臼と桶を使って仕込んだんだ。

    柿渋は化学塗料が広まる前、防腐と防水のために家の外壁や縁側、板塀へ塗られた。提灯、唐傘、団扇、型紙にも使われて、雨と傷みに立ち向かう裏方だったんだよ。

    埼玉の赤山、南部、見沼の各領では、江戸時代中期以降に赤山渋が作られて、大宮台地の農家から江戸や関東へ出荷されたんだ。

    関西から来る下り渋に対して、赤山渋は地渋と呼ばれた。保存していても比較的固まりにくいのが売りで、塗りたい日に桶の中身が岩みたいになってないのは、かなり頼もしいよね。

    ちなみにさ、渋屋は周りの農家から渋柿を買い集めていて、江戸後期には手付金を先に渡す取引もあったんだ。豊作で値段が下がって訴訟になった記録まである。

    渋柿の値段で裁判って聞くと、江戸じゅうの柿が法廷へ行進する大騒ぎみたいだけど、実際に揉めたのは売る約束と値段の話だね。柿はたぶん静かに待ってる。

    話戻るとね、伊奈忠治が赤山の周辺に渋柿を植えさせたという話もあるんだけど、これは諸説あるんだって。言い伝えとして残っている話なんだ。

    赤山渋は化学繊維や化学染料が広がると需要を失って、1977年の浦和市上野田での生産を最後に、約200年続いた地域の生産は終わった。

    でも用具98点と渋小屋1棟は文化財として残ってる。桶も臼も、柿が塗料になるまでの長い段取りを、まだ黙って覚えてるんだろうね。

  7. 馬車道のガス灯

    馬車道のガス灯は、日本最初の都市ガス事業と近代街路照明の始まり。

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    読み上げ原稿

    桶も臼も残る渋小屋の話から、夜を照らす道具つながりで思い出したんだけど、横浜の馬車道では1872年にガス灯がともったんだ。

    提灯みたいに明かりを1つずつ用意したんじゃなくて、地面の下から燃料が届く街灯だったんだよ。

    10月31日、横浜の大江橋から馬車道、本町通りに十数基が点灯して、日本で最初の近代的な街路照明として人が集まったらしい。

    夜の道に、急に明るい筋ができたわけでさ。提灯を持った人たちも、今日は休暇かなって、いや提灯に休暇はないけどね。

    仕掛けたのは横浜の実業家、高島嘉右衛門。日本社中を結成して、フランス人技師のアンリ・プレグランを招き、横浜瓦斯会社をつくったんだ。

    ガスは伊勢山下の製造所でつくられ、地中の導管を通って街灯へ送られた。街全体に見えない管を伸ばすのは、商店街の屋台へ裏方が一斉に食材を届けるみたいな仕組みだね。

    だから明かりを増やすなら、燃料を抱えた人が何度も往復するより、導管の先に街灯を足していくほうが早い。点灯した翌月には約100基、12月には約240基、約3か月後には約300基まで増えたんだって。

    ちなみにさ、10月31日はガスの記念日なんだ。1972年に日本ガス協会が、馬車道の点灯を記念して決めたんだよ。

    話戻るとね、馬車道を日本最初のガス灯と言い切るのは、諸説あるんだけど少し注意がいる。1871年には大阪造幣局で実用的なガス灯が先に使われたって言われてるんだって。

    馬車道は、日本最初の都市ガス事業で、近代的な街路照明として紹介するのが正確なんだ。2年後には神戸、同じ1874年の12月には東京でもガス事業が始まった。

    渋小屋の道具が黙って段取りを覚えていたみたいに、馬車道の地下にも、夜を明るくする段取りが通っていたんだね。地面の下、意外と働き者だな。

  8. 造幣局の桜の通り抜け

    大阪造幣局の桜の通り抜けは、市民へ開いた一方通行の花見から続く春の道。

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    読み上げ原稿

    大阪造幣局でガス灯が使われていたって話から、その構内の桜並木も思い出したんだ。春になると、造幣局はお金を作る場所なのに、桜を見る人のための長い通路になるんだよ。

    大阪の造幣局の桜の通り抜けは、明治16年、1883年の4月20日に始まったとされてる。今の通路は大川沿いに約560メートルあって、桜の時期にはおおむね1週間だけ開放されるんだ。

    始まりを提案したのは、当時の造幣局長だった遠藤謹助。局員だけで花見をするのは惜しいから、市民にも見せようって考えたと伝わってるんだって。

    工場の中にある桜を、町のみんなで見ようって発想がいいよね。仕事場の休憩室にある観葉植物を全市民に公開するのとは、だいぶ規模が違うけどさ。

    しかも通り抜けは、最初から南門の天満橋側から入って、北門の桜宮橋側へ出る一方通行だったんだ。人が集まりすぎても、桜の下で向かい合って立ち往生しないようにする段取りだね。

    桜を見に来た人が全員、同じ方向へゆっくり流れる。花見なのに、仕組みだけ聞くと大川沿いにできた人間の川みたいで、川が川の横を流れてることになるな。

    ちなみにさ、通り抜けって名前は、桜を見るために造幣局の構内を通って、裏門だった今の北門へ抜けたことから、そのまま定着したらしいよ。名前の由来が、びっくりするほど正面突破なんだ。

    話戻るとね、ここには遅咲きの八重桜が中心に植えられていて、多数の品種を一度に見られるのも特徴なんだ。早咲きの桜が春の開会宣言なら、ここは少し遅れて入ってくる本番の拍手みたいなものだね。

    構内の桜は、江戸時代にこの場所にあった藤堂藩の蔵屋敷で育てられたものを、造幣局が敷地と一緒に受け継いだとも言われてるんだって。諸説あるんだけど、桜が土地の記憶まで抱えているみたいで面白い。

    でも、その桜並木も第二次大戦中の大阪大空襲では、約500本のうち約300本が焼けてしまった。桜の大半が失われたんだから、大阪の春が丸ごと燃えたみたいな話で、いや実際に失われたのは木と場所の一部なんだけど、胸が詰まる規模だよ。

    戦後には通り抜けが再開されて、桜も補植されたんだ。だから今の560メートルは、ただ歩いて抜ける道じゃなくて、何度も春をつなぎ直してきた道なんだよね。

    花を見るための一方通行って、普段の暮らしでも導入したいな。冷蔵庫を開けたら、おやつの前を必ず通って野菜室から出る仕組みにすれば、少しは健康になれるかもしれない。桜ほど優雅じゃないけどね。

  9. 藤堂藩の伊賀者

    藤堂藩の伊賀者は、護衛や情報収集を担った実務的な役職だった。

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    読み上げ原稿

    桜並木の話に出てきた藤堂藩、その領地だった伊賀国には、伊賀者と呼ばれる人たちがいたんだ。伊賀って聞くと、つい忍者を思い浮かべるじゃん。

    でも藤堂藩の伊賀者は、黒装束で屋根を駆けるだけの存在じゃなくて、藩の仕事を支える役目として登用されていたらしいんだよ。忍びの系譜をひく郷士たちが、その担い手になったんだって。

    しかも藩の史料をたどると、最初から伊賀者と書かれていたわけじゃない。のちに伊賀者と呼ばれる人たちは、当初は忍之衆と記されているんだ。

    呼び名が変わっても、仕事はかなり現実的でさ。藩主が参勤交代で江戸へ向かうときには同行して護衛し、江戸屋敷では宿直も担ったとされる。

    さらに国内の情報を集めたり、警固をしたり、犯人を捕らえたりもした。目立たないけど、城下や屋敷の毎日がちゃんと回るようにする、藩の裏方チームだったわけ。

    たとえるなら、舞台の袖で照明も小道具も段取りも見ている人たちみたいなものかな。表に出ないからこそ、何か起きたときに、はいはい呼ばれましたよって走る係なんだよね。

    ちなみにさ、伊賀上野城下には、伊賀者の屋敷があった地域に由来する忍町という地名が残っているんだ。町名だけ聞くと、郵便屋さんも毎回ちょっと姿勢を低くして届けそうだな。

    話戻るとね、現代の忍者のイメージを、そのまま江戸時代の伊賀者に重ねることはできないんだ。黒装束に手裏剣という姿は諸説あるんだけど、研究では両者を同じものとは見ないと言われてる。

    藤堂藩は伊賀者が他の藩に仕えるのを禁じていて、明治期には忍術的な組織は消えていった。忍者の印象は残ったのに、実務を回していた人たちの仕事は、史料の文字からそっと見えてくるんだよ。

  10. 玉川上水、43キロの水路

    人口が増えた江戸を支えた、43キロの玉川上水の仕組み。

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    読み上げ原稿

    さっき江戸時代の伊賀者の話をしたけど、その江戸には人がどんどん集まって、水が足りなくなる困りごとがあったんだ。参勤交代が制度として固まると、大名や家族や家臣まで江戸に住むようになったからね。

    三代将軍の徳川家光の時代、既存の上水だけでは飲み水が足りなくなって、幕府は1652年に多摩川から水を引く計画を立てたんだ。

    工事を請け負ったのは玉川庄右衛門と玉川清右衛門の兄弟で、1653年に着工して、もう翌1654年には江戸の町へ給水を始めてる。仕事が速いね。

    玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸まで約43キロメートルを結ぶ、地面を掘ったままの水路だったんだ。しかも羽村と四谷の標高差は、たった約92メートルしかない。

    43キロを92メートルだけ下るって、江戸の町ぜんぶを少し傾けたんじゃないかって思うよね。もちろん町を傾けたんじゃなくて、武蔵野台地の地形を丁寧に読んで、水が自然に流れる道を選んだんだ。

    だからポンプなしでも水が流れるわけで、水にとっては長いゆるい滑り台みたいなものだね。詳しい経緯には諸説あるんだけど、工事が2度失敗したあと、別の設計で成功したという記録もあるんだって。

    ちなみにさ、完成後の玉川上水からは33の分水が取られて、その代表の1つが野火止用水なんだ。1本の水の道が、町や畑へ細かく枝分かれしていったんだね。

    話戻るとね、四谷から先では水を地下の石樋や木樋に通して、江戸城や四谷、麹町、赤坂、芝、京橋方面まで配ったんだ。地面の下に、水専用の配達網が伸びていたわけ。

    私なら台所からコップまで水を運ぶ途中で、ちょっと飲んで減らしそうだけどね。江戸の水は43キロ先でも迷子にならず、ちゃんと町へ届いたんだ。

  11. 湊座、舞台のガス灯

    馬車道のガス事業を担った高島嘉右衛門が、ガス灯で湊座の舞台も照らした話。

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    読み上げ原稿

    さっき、四谷から先は木樋で水を配ったって話をしていて、ふと導管という言葉が頭に残ったんだ。水を運ぶ管があるなら、あの馬車道のガスも管で町へ運ばれていたんだよね。

    そこで思い出したんだけど、馬車道に日本最初のガス灯がともってから、わずか2年後に、その明かりを舞台へ持ち込んだ劇場が横浜にできたんだ。1874年7月26日、住吉町1丁目に開場した湊座っていう劇場ね。

    座主は高島嘉右衛門で、馬車道のガス事業を手がけた人でもあったんだって。町を明るくした人が、今度は芝居の見え方まで変えようとしたわけ。

    こけら落としには中村翫雀一座が出て、三世瀬川如皐の新作、近世開港魁などが上演されたんだ。新しく港が開いた横浜で、新しい劇場が新作を出すんだから、開けたての引き出しみたいに新しいものが詰まってる。

    湊座は建物の外だけじゃなく中もガスで照らして、舞台照明にもガス灯を使ったんだ。街路を照らすための技術が、そのまま芝居の表情を見せる道具になったんだね。

    ろうそくや油の灯りより、ガス灯は明るさをまとめて扱いやすいから、役者の顔や衣装を観客に見せるにはぴったりだったんだと思う。舞台の上の人からしたら、急に町の夜が客席まで引っ越してきたような気分だったかもね。

    ちなみにさ、馬車道のガス灯は1872年9月29日、新暦では10月31日に十数基から始まったんだ。それが1874年12月には、外国人居留地を含めて約500基が横浜の街を照らしていた。

    2年ほどで明かりがどんどん増えたから、湊座がガス灯を使えたのも、町に導管と明かりの仕組みが広がっていたからなんだろうね。話戻るとね、その目新しい舞台のガス灯は、多くの観客を集めたと横浜市立図書館の資料にも残っているんだ。

    客席の人たちは芝居そのものはもちろん、舞台が明るいことにも驚いたはずだよね。今なら照明が暗いと、演出かなって思うけど、当時は明るく見えるだけで新技術の見世物にもなったんだ。

    水を運ぶ木樋から、ガスを運ぶ導管へつながって、その先で役者を照らす。管って地味な顔をしてるのに、最後は舞台の主役を照らしてるんだから、裏方の出世としてはかなり華やかだな。

  12. 六曜は暦の外から来た

    ガス事業家の高島嘉右衛門と六曜の広がりをたどる話。

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    読み上げ原稿

    裏方の管が舞台を照らしていた横浜で、そのガス事業に関わった高島嘉右衛門って人がいたんだ。実はこの人、のちには占いの高島として知られるようになるんだよね。

    1886年には高島易断を出していて、これは易の64卦を一つずつ説明した本なんだ。ガスを町へ届けた人が、今度は運勢の読み方まで届けている感じで、扱うものが急に見えなくなったな。

    嘉右衛門さんには、ガスの管を敷いたあとで、どのタイミングで占いの線まで読もうと思ったのか聞いてみたい。名刺の肩書き、途中から急に情報量が増えすぎじゃん。

    その高島易断みたいな占いの文化の近くで広がったのが、カレンダーの大安や仏滅なんだ。あれは六曜と呼ばれる日ごとの目安で、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の6つがこの順にぐるぐる回る。

    でも六曜は、太陽や月の動きを計算して日付を決める暦そのものじゃないんだ。暦が日付の骨組みなら、六曜はその横に貼る、今日はこんな日かもという小さな付せんみたいなものだね。

    旧暦では毎月1日に最初の六曜を決めて、あとは順番に進めていたんだ。正月と7月は先勝から、2月と8月は友引から始まる仕組みで、日付だけ見れば次の札が分かるわけ。

    ちなみにさ、友引は友を引くから葬儀を避ける日だと思われがちだけど、もとは勝負がつかないという共引が変わったという説明があるんだ。友だちを連れていく話から、引き分けの話へ戻るの、言葉って遠回りするよね。

    話戻るとね、日本が1873年に太陽暦へ変わったとき、明治政府は六曜みたいな暦注を非科学的な迷信として公的な暦から外したんだ。それでも1882年に六曜入りの暦が出ると、人が殺到したと伝わっている。

    日付の制度は新しくなっても、結婚式は大安がいいかなって気持ちは、カレンダーの端っこに残ったんだろうね。六曜の起源は中国の唐代の暦の計算にある説が一般的だけど、いつどう伝わって今の形になったかは諸説あるんだって。

    易の64卦の中身も気になるけど、それは占いの棚を開ける回に取っておこうか。ガス灯から仏滅まで来たけど、カレンダーって案外、いろんな人の寄り道を照らしてるんだな。

  13. 太陽がつくるビタミンD

    太陽光で作られるビタミンDの仕組みと注意点の話。

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    読み上げ原稿

    カレンダーが寄り道を照らしてるって話から、今度は太陽そのものの寄り道の話をしたくなったんだ。太陽の光って、皮膚に当たると体の中でビタミンを作る手伝いまでしてくれるんだよね。

    作られるのはビタミンDで、食べ物から取るだけじゃないんだ。太陽光のうち、紫外線の一部が皮膚に届くと、皮膚にある材料が変身して、まずビタミンD3のもとになる。

    その紫外線は、波長でいうと290から320ナノメートルあたりの紫外線B波が中心なんだって。皮膚の中の7デヒドロコレステロールがプレビタミンD3になって、さらにビタミンD3へ変わるんだ。

    材料の名前だけ聞くと、体の中に小さな研究所があって、白衣の人が走り回ってそうじゃん。でも実際には、光が当たることで分子の形が変わる、かなり静かな変身なんだよね。

    しかも、皮膚でできたビタミンD3も、食べ物から来たビタミンDも、そのままでは十分に働けないんだ。肝臓、それから主に腎臓で手を入れてもらって、ようやく活性型になる。

    できたての材料を、台所で下ごしらえしてから火にかけるみたいな流れだね。活性型になったビタミンDは、カルシウムの吸収などに関わって、骨を支える側に回るんだ。

    足りない状態が続くと、子どもではくる病、成人では骨軟化症につながることがある。骨って黙って立ってるけど、裏では光と肝臓と腎臓の連携プレーに支えられてるわけだ。

    ただし、窓辺で日差しを浴びれば同じかというと、そうでもないんだ。窓ガラスは紫外線B波を通しにくいから、窓越しの日光には皮膚でのビタミンD作りをあまり期待できない。

    ちなみにさ、キノコに紫外線を当てると、入っているエルゴステロールからビタミンD2が作られるんだ。キノコ売り場に日当たり確認係を置く案、ちょっとだけ本気で検討したくなるね。

    話戻るとね、どれくらい日光を浴びればいいかは、一律には決めにくいんだ。季節や時刻、住んでいる場所の緯度、雲、肌のメラニン量、服装や日焼け止めでも、作られる量が変わるからね。

    紫外線には皮膚がんのリスクもあるから、何分浴びれば大丈夫って単純には言えない、と言われてるんだって。太陽は無料の工場みたいだけど、見学時間まで勝手に決めちゃいけない工場なんだな。

  14. ルパート王子の滴

    急冷したガラス滴は尾を折ると高速の亀裂で粉砕する。

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    読み上げ原稿

    さっき窓ガラスの話をしてたら、赤く溶けたガラスを冷水へ落とす実験を思い出したんだ。すると、頭が太くて尾が細い、オタマジャクシみたいなガラスができるんだよね。

    これはルパート王子の滴って呼ばれていて、太い頭の部分はハンマーでたたいてもなかなか割れないのに、細い尾をほんの少し折るだけで、滴ぜんぶが粉みたいに砕けるんだ。

    強い頭と、触れたら終わりの尾が同じ体にくっついてるわけ。ガラス界の見た目は屈強、弱点はしっぽ、みたいな設定だね。

    仕組みは、冷水に入った瞬間、表面だけが先に固まることにあるんだ。中身はまだ熱くて、あとから冷えて縮もうとするから、表面はぎゅっと押し込まれ、内部は引っ張られたままになる。

    表面の押し込みは、ひびが広がるのを止める壁みたいに働く。だから頭をたたいても割れにくいんだけど、尾を折るとひびが内部の引っ張られた場所へ入り込んで、一気に走り出すんだって。

    パデュー大学の高速撮影では、そのひびは尾から頭へ時速4000マイル以上で進んだと報告されたんだ。地球をガラスのオタマジャクシが走り回るわけじゃないからね、ひびの速さの話だよ。

    ちなみにさ、この滴を英国宮廷に持ち込んだのは、1660年ごろのルパート王子だと言われてる。翌年にはチャールズ2世が、調べてみてって王立協会へガラスの泡を送ったんだ。

    王様たちが割れにくいガラスを囲んで、尾だけ折ったら粉々になるのを見てたと思うと、当時の人に掃除は誰がする担当だったのか聞いてみたくなる。

    ただ、滴そのものをルパート王子が発明したわけじゃなくて、彼より前からヨーロッパのガラス職人には知られていた可能性が高い、という諸説あるんだ。名前をもらった人は、ずいぶん得をするよね。

    話戻るとね、表面を圧縮してひびを広がりにくくする考え方は、強化ガラスを理解する手がかりにもなったんだ。外側を先にぎゅっと我慢させると、全体が粘るわけだ。

    ガラスって、割れたら終わりの気難しい素材に見えるけど、中には驚くほど速いドラマを抱えてるんだな。尾をつまむと大騒ぎする小動物みたいで、ちょっと扱いづらい。

  15. 「細胞」はコルクから

    コルクの観察から細胞という呼び名が生まれた話。

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    読み上げ原稿

    尾をつまむと大騒ぎするガラスの話から、王様たちが実験を見ていた時代をたどると、王立協会で働いていたロバート・フックに行き着くんだ。

    この人が、生物の細胞って言葉の出発点を作ったんだよね。きっかけは、ワインの栓にも使うコルクだった。

    フックはコルクをものすごく薄く切って、複式顕微鏡で観察したんだ。すると、小さな仕切りで区切られた空間が、ずらっと並んで見えた。

    それを小部屋みたいだと考えて、セルと呼んだわけ。この呼び名が、生物学でいう細胞につながっていくんだ。

    コルクは木の組織だから、フックが見ていたのは主に生きて動く細胞そのものじゃなく、空いた区画や細胞壁の構造だったんだって。生き物の名前の始まりが、空室だらけの集合住宅みたいな景色だったの、ちょっと意外じゃん。

    ちなみにさ、フックはコルクだけを見て満足したわけじゃないんだ。1665年にロンドンで出した観察記録集ミクログラフィアには、ノミやシラミ、ハエ、羽毛、月面まで、精密な銅版画が38点も載っていた。

    特にノミの拡大図は有名で、肉眼では見慣れた虫が怪物みたいに見えるんだ。ノミからしたら、勝手に顔を巨大ポスターにされて、身だしなみを整える暇もないよね。

    話戻るとね、コルクの小部屋を見つけたことは、見えないほど小さな世界にも構造があると、多くの人に伝える入口になったんだ。フックは絵でも見せたから、顕微鏡をのぞけない人まで、その世界を想像できたわけ。

    瓶の口をふさぐ地味なコルクが、細胞って言葉の名付け親みたいになるんだから、台所の栓にも急に学者っぽい顔をされそうだな。

  16. 易の64卦

    易の64卦は、陰陽の二択を6本の線に重ね、変化まで読む仕組み。

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    読み上げ原稿

    コルクの小部屋から見えない世界をのぞいた話、線だけで世界を組み立てる昔の道具にもつながるんだ。前に置いてきた易の64卦、ここでちゃんと開けよう。

    易経の中心には、横線を6本並べた卦が64種類あるんだって。線は、つながった陽か、真ん中が切れた陰かの二択だけ。

    二択を6段重ねると、2の6乗で64通りになる。64は宇宙の秘密っぽい顔をしてるけど、二択の積み木を6個積んだ答えでもあるんだ。

    読む順番は下から上で、下の3本を下卦、上の3本を上卦って呼ぶ。3本だけなら8通りの八卦で、その8通りを上下に重ねるから64通りになるわけ。

    たとえば乾は6本全部が陽の線で、坤は6本全部が陰の線。真っ白な紙と真っ黒な紙みたいに、きっぱり正反対なんだよね。

    占うときは、伝統的には50本の筮竹を動かすか、硬貨3枚を6回投げる。下の線から順に決めるから、卦を地面から建てていく感じなんだ。

    しかも出た数字が6か9だと、その線は変爻になって陰陽が反転する。最初の卦だけじゃなく、ひっくり返った後の卦まで読むんだよ。

    占い1回で卦が着替えるわけで、6本の線なのに舞台装置が大劇場級じゃん。いや、線がカーテンコールするわけじゃないけどね。

    ちなみにさ、ドイツのライプニッツは、切れた線とつながった線を0と1みたいに見て、二進法と結び付けて考えたんだ。64卦は、0と1を6桁並べたものみたいにも眺められる。

    話戻るとね、64卦を伏羲が作って、周の文王が整えたって言われてるんだって。ただ、実際の成立をその人物たちだけにそのまま帰すことには、諸説あるんだ。

    線が切れてるか、つながってるか。それだけの違いを6回重ねて、変化まで読むんだから、コルクの小部屋に負けないくらい、線の世界も住人が多いんだよね。

  17. かみのけ座の女王

    女王ベレニケ2世の髪が、かみのけ座になったという物語。

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    読み上げ原稿

    線が切れてるか、つながってるかで世界を読む話から、今度は硬貨に刻まれた顔の話へ行こう。古代の硬貨って、王や女王の肖像がちゃんと入ってるんだよね。

    大英博物館には、プトレマイオス朝エジプトの王妃、ベレニケ2世を表した銀貨があるんだ。紀元前246年ごろから222年ごろにエジプトで鋳造されたものらしいよ。

    硬貨の顔から空の星まで話が飛ぶのは、ベレニケ2世が自分の髪を神に献じたという物語があるからなんだ。夫のプトレマイオス3世が、第3次シリア戦争から無事に帰るよう願ったんだって。

    夫が帰還した後、その髪は神殿から消えてしまう。そこで宮廷天文学者のコノンが、空に見える淡い星の集まりを、女王の髪だと説明したと伝えられてる。

    空を見上げて、なくなった髪はあそこですって言う発想、かなり大胆じゃん。でも髪を探して部屋を片付ける私より、話の着地点がずっと壮大なんだよね。

    この星の集まりはラテン語でコマ・ベレニケス、直訳するとベレニケの髪っていう意味なんだ。日本語では、そのままかみのけ座と呼ばれてる。

    星の並びを髪の房に見立てたわけで、夜空を黒い布だとしたら、そこに細い銀糸をふわっと縫い付けたみたいな眺めなんだろうね。星座って、宇宙に刺しゅうを見つける遊びでもあるのかも。

    ちなみにさ、かみのけ座にはメロッテ111っていう散開星団もあるんだ。肉眼でも淡く星が群れて見えて、名前どおり髪の房みたいに見えるんだって。

    話戻るとね、この逸話はカリマコスがベレニケの髪という詩にもしているんだ。今に残る断片にも、コノンが空で女王の髪を見つけたという筋が残ってる。

    ただし、髪を切って献じた出来事や、消えた髪を星にした経緯は、王朝が広めた物語や宮廷詩に基づくもので、史実の細部には諸説あるんだけどね。硬貨の肖像は手元に残っても、髪の行方は空へ預けられたままなんだ。

    なくした髪を星座にするなら、私がなくす靴下の片方にも、いつか立派な星の名前が付くかもしれない。たぶん見つかるのは洗濯機の奥だけどね。

  18. ロゼッタ・ストーンの三文字

    ロゼッタ・ストーンは2言語3文字体系で、ヒエログリフ解読の鍵になった石碑。

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    読み上げ原稿

    洗濯機の奥に消えた靴下みたいに、見つからなかったものが思わぬ鍵になる話があるんだ。プトレマイオス朝で思い出すのが、ロゼッタ・ストーン。

    これ、よく3言語で書かれた石って紹介されるんだけど、じつは少し違うんだ。古代エジプト語を聖刻文字と民衆文字の2種類で書いて、さらに古代ギリシア語でも書いた、2言語3文字体系の石碑なんだよね。

    内容は紀元前196年、プトレマイオス5世をたたえる神官団の布告。残っている文字は上から聖刻文字が14行、民衆文字が32行、古代ギリシア語が53行なんだ。

    同じお知らせを、神殿向けのかっちりした字、日常用の字、それから支配層にも読めるギリシア語で並べた感じだね。案内板が3種類の書体で自己紹介してるみたいで、石碑もずいぶん気配り屋じゃん。

    1799年に、ナポレオン軍がエジプトのラシード近くのサン・ジュリアン要塞を工事していて見つけたんだ。古代ギリシア語は読めたから、同じ布告だと分かる他の2つの文字と比べられた。

    だから、長いあいだ読めなかったヒエログリフを解くための、答えつき問題集みたいな役目になったわけ。トマス・ヤングたちの研究を踏まえて、ジャン=フランソワ・シャンポリオンが1822年に大きな突破口を示したんだって。

    ちなみにさ、石の裏側には、1801年に英国軍がエジプトで捕獲し、国王ジョージ3世が寄贈したっていう英語の刻みもあるんだ。古代の3種類の文字に、後から近代の英語まで参加してる。

    話戻るとね、石は1801年に英軍が接収して、今は大英博物館にあるんだ。石碑からすると、私は布告を届けただけなのに、急に文字の先生まで任された、って気分かもね。

  19. 緯度経度で描く世界

    プトレマイオスの地理学は緯度経度で世界を描き直せる本だった。

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    読み上げ原稿

    ロゼッタ・ストーンに刻まれていた王はプトレマイオス5世だったけど、同じプトレマイオスの名を持つ学者もいるんだ。

    2世紀ごろ、アレクサンドリアで活動したクラウディオス・プトレマイオス。王とは別人で、地図の世界ではこっちもかなり有名なんだよね。

    この人の地理学は、当時のギリシア・ローマ世界で知られていた地理の知識を集めた本なんだ。

    面白いのは、約8000の地点を緯度と経度の数字で並べたところ。数字さえあれば、あとから地図を描き直せる仕組みになってた。

    8000地点だよ。世界ぜんぶを方眼ノートに閉じ込める勢いじゃん。いや、ノートの端が先に泣くけどね。

    緯度と経度は、地球に縦と横の目盛りを付けるようなものなんだ。だから都市や山の場所を数値で渡せば、同じ場所を別の人も地図に置ける。

    ところがこの本は、中世の西ヨーロッパではいったんほとんど忘れられた。1300年ごろからビザンツの写本がイタリアに伝わって、1406年にヤコポ・ダンジェロがラテン語へ訳したんだって。

    印刷版は1477年にローマで出て、翌年の版には世界図と地域図を合わせて27枚も入ってた。知識が本棚から地図帳へ、わっと広がった感じだね。

    ただしプトレマイオスは地球を実際より小さく見積もっていたんだ。これが、西回りならアジアはもっと近いってコロンブスが考える一因になったと言われてる。

    私なんて近所の店までの距離を短く見積もって、帰り道に荷物を抱えて反省するのに、地球の大きさで同じことをやると歴史が動くんだね。

    ちなみに1513年の地理学の版では、新たに知られた南北アメリカも地図帳の形で取り込まれた。世界は数字の格子に収まりながら、ちゃんと外へ広がっていったんだ。

  20. 星のギリシャ文字

    かみのけ座の独立と、星をギリシャ文字で呼ぶバイエル符号の話。

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    地図帳に世界を取り込んだプトレマイオスの話で、かみのけ座の女王について1つだけ言い忘れてた。あのかみのけ座、プトレマイオスがまとめた48の星座には、まだ独立した星座として入ってなかったんだ。

    ベレニケ2世が髪を奉納して、その髪が星になったっていう由来は古代の物語として伝わってる。コノンが名付けたとも言われてるんだって。

    でも当時の星空の名簿では、髪はまだ単独の欄をもらえてなかったわけ。髪型の流行として分類されたのかと思ったけど、そんなわけないね。

    それを独立した星座として扱ったのが、ティコ・ブラーエの1602年刊行の星表なんだ。物語の髪が、ちゃんと星空の住所を手に入れた感じだね。

    その翌年の1603年には、ヨハン・バイエルがウラノメトリアという星図帳を出した。ここで星をギリシャ文字で呼ぶ方式が広まったんだ。

    アルファやベータって呼び方は、今でもバイエル符号として使われてる。星に順番札を付けるみたいで、夜空も意外と整理整頓してるんだよね。

    ウラノメトリアは南天も含む空を扱った、最初の精密な印刷星図帳で、図は全部で51枚あった。空を51枚に分けて持ち歩けると思うと、ちょっと贅沢な地図帳だな。

    今の暮らしでも、部屋の明かりにアルファ、ベータって札を付けたら便利かも。たぶん私はベータの電球だけ替えて、アルファの暗さでつまずくけどね。

  21. 地図帳「アトラス」の由来

    地図帳アトラスは、メルカトルの著書名から定着した呼び名なんだ。

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    読み上げ原稿

    さっき、空を51枚に分けた地図帳の話をしたけど、地図帳そのものをアトラスって呼ぶのも面白いんだ。

    このアトラスって言葉を地図帳の名前として広めたのは、16世紀の地図製作者、ゲラルドゥス・メルカトルなんだって。

    メルカトルは、自分の本にアトラス、または世界のつくりと姿についての宇宙誌的考察、っていう長い題を付けたんだ。題名だけで本棚を半分使いそうだね。

    その本はメルカトルが亡くなった後、1595年に息子のルモルトが刊行した。知られている版には地図が107図も入ってる。

    107図となると、世界をぜんぶ机に広げて、机が地図に占領される規模じゃん。いや、普通の机なら最初の数枚で降参だけど。

    アトラスの由来は、空を担いでいる巨人を思い浮かべる人が多いよね。地図帳も世界を支えてる感じがして、たしかにしっくりくる。

    でもメルカトルが念頭に置いていたのは、天文学と数学に通じた、伝説上のマウレタニア王アトラスだったと言われてるんだって。マウレタニア王の話は、また別の夜に取っておこう。

    星図帳から地図帳へ、アトラスは空も地面もまとめて抱えてきたわけだ。私ならアルファの電球を抱えた時点で、暗い部屋につまずいて落とすけどね。

  22. アトラス杉の森

    アトラス山脈に育つアトラススギと、その分布や園芸品種の話。

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    読み上げ原稿

    アトラスが空や地面を抱える名前なら、アトラス山脈にはちゃんとアトラススギが立ってるんだ。名前の連想ゲームなのに、山まで出てくるのが気持ちいいよね。

    アトラススギは、モロッコからアルジェリア北部にまたがるアトラス山脈の山地で育つ、マツ科の常緑針葉樹なんだって。アトランティカという種の名も、アトラス山脈に由来してる。

    しかもモロッコのアトラススギ生物圏保護区には、世界にいるアトラススギのおよそ75パーセントがあるとユネスコはしているんだ。4本見つけたら、だいたい3本はそのあたりの仲間って感じだね。

    園芸では、葉が青みを帯びるグラウカという品種が、ブルーアトラスシダーの名で庭木にもなってる。北アフリカの山の木が、家の庭で青っぽい影を作るわけだ。

    じゃあ防犯のために、庭にブルーアトラスシダーを植えて、見張りの巨人アトラスの気分だけ味わうのもありかも。実際には木が空を担いでくれるわけじゃないから、屋根の修理は自分で呼ぼうね。

    ところでシダーって呼ばれる木には、スギ属ではない木も混じるんだけど、アトラススギはシダーの本家筋、ヒマラヤスギ属の木なんだ。呼び名が同じでも、名札だけ借りてる木がいるんだね。

    アトラススギを独立した種とする考え方のほかに、レバノンスギの亜種とする説も文献には残っていて、ここは諸説あるんだけどね。山の木も、植物の分類棚では少し居場所を相談中らしい。

  23. マウレタニア王アトラス

    王アトラスは、地図帳の名にもつながる天文に通じた伝説上の人物。

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    読み上げ原稿

    分類棚で居場所を相談中って話をしてたら、前に置いてきたもう1人のアトラスを思い出した。マウレタニアを治めた王として語られるアトラスのこと。

    古代ギリシャの歴史家ディオドロスは、アトラスを大洋の沿岸の王として書いてるんだ。民はアトランティオイ、いちばん大きい山はアトラスと呼ばれたらしい。

    しかもこの王、天文や占星術を発展させて、天球の理を人々に初めて示した人物だとされてる。空を大きな透明な球だと考える、その仕組みを教えたわけだね。

    だから天を肩で支える巨人アトラスは、力持ち自慢というより、空の知識を神話の絵にした姿だって説明になる。肩こりを我慢してた英雄だった、という話じゃないよ。

    地図帳をアトラスと呼ぶ直接のきっかけになったメルカトルも、1595年の本でこの王アトラスを選んだんだ。巨人より、地理と天文に通じた王のほうが、世界をまとめる本には合うと思ったんだろうね。

    ただし、マウレタニア王アトラスは実在が確認された王ではなくて、神話を人間の王の物語として語り直した伝説上の人物だと言われてるんだって。山の名、巨人、王をどこまで同じアトラスと見ていいかも、諸説あるんだけどね。

    ディオドロスの話には、アトラスの子ヘスペロスも出てくる。山頂で星を観察していたら強風で消えてしまい、その名が明るい星に付いたというんだ。

    宵の明星を意味するヘスペロスにつながる話なんだけど、当時の人には、山頂で星を見る日は風向きも記録しなかったのって聞いてみたくなる。星の観察メモの端に、今日は帰ろう、って書いておきたい。

    木から山へ、山から王へ、王から地図帳へと、アトラスの名前はずいぶん遠くまで歩いてる。名前ひとつで、夜空まで連れていかれるのは悪くないね。

  24. 舵を変えない航路

    メルカトル図法では等角航路が直線になり、針路を読みやすい。

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    読み上げ原稿

    夜空まで連れていかれる地図帳の話から、今度は地図の上で船をまっすぐ走らせる話をしよう。メルカトルが1569年に示した世界図には、航海でうれしい仕掛けがあるんだ。

    メルカトル図法では、一定の方位を保って進む等角航路が、地図の上では直線になる。舵を同じ向きに保つ航路が、紙の上でも素直に線を引けるわけ。

    海図に直線を引いて、子午線とつくる角を読めば、船が保つべき針路を決められるんだ。

    料理のレシピで、毎回同じ角度に包丁を入れるみたいなものかな。最短で切れるかは別として、手元で迷わないのが大事なんだよね。

    ただし、等角航路はたいてい、地球の上で最短になる大圏航路より長い。地球は丸いから、地図上のまっすぐと、実際の近道は仲良くしてくれないんだ。

    しかも高緯度ほど、メルカトル図法の尺度のゆがみは大きくなる。便利な定規にも、得意な場所と苦手な場所があるんだね。

    それでも、直線と角度で針路を読める便利さは強くて、電子海図などの航海システムでもメルカトル図法で表示されるものが多いんだって。

    山頂で星を見るなら今日は帰ろうって書きたくなったけど、海では今日は舵を変えないって書く感じかも。風が強い日は、両方とも早めに帰ろう。

  25. 帆で測った風の強さ

    帆の扱いを目安にしたボーフォート風力階級の由来と広がり。

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    読み上げ原稿

    海で早めに帰るかを決めるなら、風の強さをどう伝えるかも大事になるじゃん。帆船の時代には、帆をどこまで出せるかで風を測る目安があったんだ。

    1805年、フランシス・ボーフォートが測量航海中の軍艦ウルウィッチで、その尺度を考えた。翌年1月13日の日誌に、最初の記録を残してるんだって。

    その後1807年に、風力を0から12までの13段階に整えたんだ。帆走フリゲート艦が、その風でどの帆を張れるかを見る仕組みだった。

    風力12はハリケーンで、帆は1枚も出せない。帆の側からしたら、今日は絶対に勤務しません、って日だね。

    当時の船乗りには、風を数字だけで言われるより、帆をどう扱うかで言われるほうが手触りがあったんだろうね。料理で火加減を弱火とか強火とかで伝える感じに近いかも。

    1838年には英国海軍が、艦船の航海日誌でこの尺度を使うよう命じた。今も海上予報では、海面の様子と結び付けて、経験から風の強さを表すのに使われてる。

    ただ、ボーフォートが風力階級を最初に作ったわけではない、という説もあるんだ。英国の気象庁によると、似た尺度は少なくとも約1世紀前からあったらしい。

    それでも、帆の扱いという船乗りの実感を、みんなで使える段階にしたのが大きかったんだろうな。風って見えないのに、帆を見れば少し会話してくれる感じがする。

    ちなみにボーフォートは、ビーグル号の艦長ロバート・フィッツロイから相談を受けて、博物学者としてチャールズ・ダーウィンを推薦したんだって。風の目安を作った人が、後に世界の見え方まで揺らす旅の人選にも関わってるの、話が帆より大きくふくらむよね。

  26. 天気予報のはじまり

    フィッツロイが海上安全のために天気予報を始めた話。

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    読み上げ原稿

    ビーグル号の艦長だったロバート・フィッツロイで思い出したんだけど、この人、航海のあとには天気予報の土台まで作ってるんだ。

    1854年に英国の気象局を創設して、まずは海で安全に航海できるよう、海の天気を調べ始めたんだって。

    でも1859年、ロイヤル・チャーター号の遭難が起きて、海の怖さが一気に現実になった。

    そこで沿岸各地の観測を電信でロンドンに集める仕組みが整って、1861年2月には港や船へ暴風警報を出し始めたんだ。

    離れた場所の空模様を、電線で急いで集めるわけでさ。各地の雲を、でっかい洗濯物の取り込み当番表に書き込む感じだね。

    そして同じ年の8月1日、フィッツロイはタイムズ紙に一般向けの天気予報を初めて載せた。北部、南部、西部ごとに、24時間から48時間先の天気と風向きを短く知らせる内容だったんだ。

    今なら画面を見ればすぐ分かるけど、当時は新聞を開いて、明日の風を先に知れるだけでもかなり心強かったはずだよね。

    ちなみに暴風警報は、マストに円すい形や太鼓形の標識を揚げて、強い風がどちらから来るか船へ伝えてたんだって。

    この目で読む警報、1984年まで使われてたらしい。私なんて洗濯物を干してから空を見るのに、船は標識を見て先に逃げてたんだな。

  27. モールスは画家だった

    モールスは発明家になる前、画家や写真術の紹介者として活動していた。

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    読み上げ原稿

    船へ情報を届ける標識の話をしてたら、電信のモールス符号を作ったモールスのことを思い出した。実はこの人、最初は画家だったんだ。

    肖像画や歴史画を描いていて、1826年にはニューヨークの画家たちとナショナル アカデミー オブ デザインを作り、初代会長まで務めてる。発明家の前に、絵の世界でかなり中心人物だったわけ。

    肖像画を描かれた人って、似てるか確認するとき、どの顔で見てたんだろうね。真顔だと、その真顔も描かれそうで困る。

    モールスは連邦議会議事堂のために、ルーヴル美術館という大きな歴史画も描いた。でも評判も売れ行きも振るわなくて、だんだん発明へ比重を移していったんだって。

    絵のほうは、私は大作なんですけどって額の中で腕を組みたくなるかもね。

    さらに1839年、パリでダゲールに会って、ダゲレオタイプ写真術をアメリカへ紹介する初期の人物にもなった。絵を描く人が、電信と写真の時代の入口にも立ってたんだな。

  28. ダゲールの光の劇場

    ダゲールは写真術の前、光で景色を変えるディオラマ劇場を作った。

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    読み上げ原稿

    ダゲレオタイプ写真術を広めたダゲールで思い出したんだけど、その前の彼は、光そのものを使った劇場を作ってたんだ。

    1822年、ダゲールは画家のシャルル=マリ・ブートンとパリでディオラマを開いた。

    大きな半透明の絵を前からも後ろからも照らして、光の当て方を変えると、同じ景色が昼になったり夜になったり、天気まで変わったように見えたんだって。

    絵は動かないのに、照明だけで時間が進む。舞台の裏で太陽を手回ししてるみたいで、なかなか粋だよね。

    翌1823年にはロンドンにもディオラマができて、観客席を約70度回して、2つの舞台を見せる仕掛けまであったんだ。映画より前に、光で動く絵を楽しんでたわけ。

    これ、在宅勤務の背景にも導入したいな。朝の部屋を夕焼けにして、今日はもう働いた気分ですって言い張るの。

    ちなみにディオラマって言葉は、のちに自然史博物館なんかの立体展示にも使われるようになったんだ。

    私の部屋も、照明だけで片づいて見える展示にしたいけど、床の服までは昼夜を変えても消えないんだよね。光、そこは頼むよ。

  29. 予報は予言でなく

    ビーグル号の艦長フィッツロイは、観測に基づく天気予報を世に示した。

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    読み上げ原稿

    自然史博物館の展示って、実はダーウィンたちがビーグル号で集めた鳥の標本も残ってるんだ。あのディオラマの中身につながる、本物の鳥たちだね。

    その航海でダーウィンと一緒だった艦長が、ロバート・フィッツロイ。彼はのちに、空の様子を観測して人に知らせる仕事にも力を入れたんだ。

    予報って、未来を当てるから予言みたいに聞こえるじゃん。でもフィッツロイは、占いじゃなくて観測データから考えるものだと示したくて、天気予報という言葉を使ったと言われてるんだって。

    水晶玉の代わりに、気圧とか風の記録をのぞき込むわけ。いや、水晶玉に数字がびっしり出たら、それはそれで頼れそうだけどね。

    そして1861年8月1日、前日の7月31日に作った原稿をもとに、タイムズ紙へ最初の公衆向け天気予報を載せたんだ。未来を言い切るんじゃなく、集めた空の記録から次を見積もる。そこが大事なんだよね。

    さらにフィッツロイ自身が集めた鳥類標本は、王立海軍の収集物として当時の大英博物館へ渡って、ほぼ全体に当たる約200点が残ってるんだ。

    約200羽分って聞くと、鳥たちが一斉に会議して、明日の風向きを決めてたみたいだよね。実際に空を読むのは人間だったけど、標本もなかなかの大所帯だな。

  30. タイムズ紙の初クロスワード

    タイムズ紙が1930年に初掲載したクロスワードと暗号風形式の話。

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    読み上げ原稿

    鳥の標本が約200羽も並ぶって聞くと、今度は文字まで群れで並べたくなるじゃん。タイムズ紙には、1930年2月1日に初めてクロスワードが載ったんだ。

    作ったのはエイドリアン・ベル。農場主でもあった人なんだって。

    畑を見ながら、ここには3文字の野菜が入るな、とか考えてたのかな。どうでもいいけど、収穫より先にマス目を埋めてたらちょっと聞いてみたい。

    タイムズ紙のクロスワードは、ただ答えの意味を当てるだけじゃない。言葉を並べ替えたり、1つの言葉に別の意味を重ねたりして、手掛かりそのものをひねる暗号風の形式へ育っていったんだ。

    たとえば鍵を探していると思ったら、手掛かりの文章そのものが鍵穴の形をしてる、みたいな感じ。解く側も、意味と文字の両方をいじって考えるわけ。

    この暗号風って呼ばれる遊び方は、また別の機会にほどいてみようか。1問でお茶がぬるくなるタイプのやつだからね。

    ちなみに、クロスワードを広く流行させたのは、1913年にニューヨークの新聞へ載せたアーサー・ウィンだと言われてる。新聞の片隅のマス目が、こんなに長く人を悩ませるとはね。

    鳥が明日の風向きを会議してたなら、文字たちは今夜も、どのマスに入るかで会議中かも。議長はたぶん、やたら横に長い言葉だね。

  31. コーデュロイの語源

    コーデュロイは畝のある布地で、語源には王の綱説など諸説ある。

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    読み上げ原稿

    議長がやたら横に長い言葉なら、エイドリアン・ベルが1930年に出した本の題名、コーデュロイも気になるじゃん。畑の暮らしを書いた本なんだって。

    コーデュロイは、縦に畝がずらっと並ぶ、毛足を切った丈夫な布地のこと。ふつうは綿で作られていて、触ると細いあぜ道が何本も走ってるみたいなんだ。

    名前は18世紀には記録があって、畝を表すコードと、昔のイギリスの粗い織物デュロイがくっついたらしい。らしい、というのは語源がきっぱり確定してないからね。

    フランス語で王の綱という意味から来た、という有名な説もあるんだけど、フランス語として使われていた裏付けが乏しくて、民間語源とされてるんだって。

    王の綱って聞くと、王様がズボンをひもで固定してたみたいだけど、布の名前の話だからね。王様、急に生活感が強すぎる。

    さらにアメリカでは、沼地に丸太を横並びにして造る道も、畝みたいな見た目からコーデュロイ道路と呼ばれたんだ。

    丸太を何本も並べるから、王様の道が地球を一周する勢いだね。いや、沼地を渡る分だけで十分なんだけど。

    布の畝から道の畝まで、名前って案外、見た目の印象をしぶとく連れて歩くんだね。

  32. フスタートというテント

    フスタートはテントに由来する、エジプト最初のイスラム時代の首都。

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    畝みたいな見た目が名前を連れて歩くなら、コーデュロイの元になったかもしれないフスチアンも、行き先まで連れていこう。

    フスチアンの名前は、エジプトのフスタートで作られた布に由来するという説があるんだ。確定ではなくて、諸説あるんだけどね。

    そのフスタートは、641年にアラブ軍の将軍アムル・イブン・アル=アースが建てた、エジプトで最初のイスラム時代の首都なんだって。

    しかもフスタートは、アラビア語でテントという意味。軍が置いた陣営にちなんだ地名とされてる。

    首都の名前がテントって、引っ越したばかりの家の表札に段ボールって書くくらい、出発点をそのまま残してる感じだよね。

    最初に建てられた建物は、アムル・イブン・アル=アースのモスク。エジプトとアフリカで最初のモスクとされているんだ。

    都市の場所は、テントに鳩が卵を産んでいたから、軍がテントを動かさずに選んだという伝説もあるんだって。卵のある場所を避けるの、意外とやさしい。

    ちなみにフスタートの一帯は今のオールド・カイロで、ベン・エズラ・シナゴーグや古い教会群も残ってる。

    テントから始まった街に、いろんな祈りの建物が重なっていくんだね。仮住まいのはずが、ずいぶん立派なご近所になったもんだ。

  33. パピルスの紙づくり

    パピルスは植物の茎を縦横に重ねて作る古代の書写材。

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    古い教会群が残るオールド・カイロから、ナイル川のことを思い出したんだけど、あの川のそばではパピルスが大活躍してたんだ。

    古代エジプトから地中海世界まで、3,000年以上も、文字を書くための主な材料だったらしい。

    材料はカヤツリグサ科のパピルスっていう植物の茎で、その真ん中のやわらかい髄を細い帯にするんだ。

    それを縦に並べ、その上に横向きの帯を重ねて、ぎゅっと圧して乾かすと、1枚のシートになる。

    縦横に重ねるって聞くと、古代エジプトの人が紙に十字路を作ったのかと思うけど、違う違う。繊維を組んで、書ける面を作ってたんだよ。

    だからパピルスは表と裏で、繊維が走る向きが直角になる。文字を書く面を選ぶときの手掛かりにもなったんだって。

    最初に作った人に、縦を先に置く派だったのか横を先に置く派だったのか、どうでもいいけど聞いてみたくなるな。

    しかも英語のペーパーっていう言葉は、ラテン語のパピルスを経ているんだ。現代の紙の名前の中にも、植物の気配が残ってる。

    机の上の紙を見たら、ちょっとだけ湿地帯を思い出しそうだね。

  34. 暗号クロスワードの作法

    暗号クロスワードは定義と語遊びを重ね、解ける公平さも大切にする。

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    机の上の紙から湿地帯までたどると、今度は新聞紙の中にあるマス目まで見えてくるんだよね。あのクロスワード、前に暗号風のやつをあとで話すって置いてきたままだった。

    暗号クロスワードは、答えの意味を示す定義と、答えの文字を見つけるための語遊びを、もっともらしい1つの文に重ねたパズルなんだ。

    表向きは普通のヒントなのに、もう片方の顔では文字をどう料理するか指示してる。新聞のマス目、急に二重スパイみたいじゃん。

    たとえば、混ぜたとか壊れたって言葉があれば、その前後の文字を並べ替えなさいって合図になることがある。文として読めるのに、解く側には文字操作の説明書としても読めるわけ。

    1925年には、エドワード・パウィス・マザーズがトルケマダという名義で、全部をこんな暗号式ヒントにしたクロスワードを土曜ウェストミンスター・ガゼット紙に出したんだ。

    この人が暗号クロスワードの発明者だって言われてるんだけど、諸説あるんだよね。それより前にも、文字の並べ替えみたいな暗号的な仕掛けはクロスワードにあったらしい。

    私はレシピに混ぜるって書いてあっても、ときどきボウルの外へ材料を飛ばすのに、文字なら散らからずに混ぜ直せる。文字のほうが台所より行儀がいいな。

    その後を継いだデリック・マクナットは、シメネスという名前で活動して、1966年の本で公平なヒントの原則を詳しく示したんだって。今もシメネス式の原則って呼ばれてる。

    ヒントは意地悪な暗号じゃなくて、解けるだけの手掛かりをちゃんと渡すもの。マス目の中でも、約束は守るんだな。

  35. ビッグ・ベンは鐘

    ビッグ・ベンは塔でなく鐘で、ひびを直して今も鳴っている。

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    マス目の中でも約束を守る、ってところから、ウェストミンスターの大時計を思い出したんだ。あれ、みんながビッグ・ベンって呼ぶやつ。

    でもビッグ・ベンは塔の名前じゃなくて、エリザベス・タワーの中にある大きな鐘の呼び名なんだって。塔までまとめて呼ばれがちだけど、主役は中で鳴ってる鐘なんだよね。

    今ある鐘は1858年にホワイトチャペル鐘鋳造所で作られて、重さは約13.7トン。1859年7月11日に初めて鳴った。

    13.7トンの目覚まし時計だよ。いや、朝に止めようとして近づいたら、こっちが止まる。

    ところがこの鐘、鳴り始めた同じ年にひびが入っちゃったんだ。1863年には鐘を90度回して、たたくハンマーも軽いものに替えて、また使えるようにしたらしい。

    ひびが広がらないように、小さな四角い穴まで切ってあって、それが今も残ってる。大事な道具を直しながら使う感じ、なんだかいいよね。

    名前は背の高い政治家、ベンジャミン・ホールにちなんだ説が有力なんだけど、由来は諸説あるんだって。議会もたぶんそうだろう、くらいの言い方なんだ。

    ちなみに大時計の振り子は、昔の1ペニー硬貨で微調整してたんだって。1枚足すと、24時間で約0.4秒進む。

    時計がずれたら硬貨を1枚足す、って家の時計にも採用したいけど、たぶんまず硬貨を貼る場所で揉めるな。

  36. 鉄道がそろえた時刻

    鉄道が正確な運行のため、英国に統一時刻を広げた話。

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    硬貨で時計を合わせる話から、時刻そのものを全国でそろえた鉄道の話をしたくなった。

    昔のイギリスでは、町ごとに太陽を見て時刻を決めてたから、経度が違うぶん時計も数分ずつ違ってたんだ。

    でも鉄道は、数分の違いでも発車時刻がぐちゃぐちゃになるじゃん。

    そこでグレート・ウェスタン鉄道は、1840年11月に、路線の駅と時刻表をロンドン時、つまりグリニッジ平均時で統一するよう指示したんだって。

    駅の時計からしたら、今まで太陽を見て働いてたのに、急にロンドン基準で出勤しろって言われた気分かもな。

    グリニッジ天文台の時報は電信で駅へ送られて、駅長が時計を合わせた。時刻が線路に乗って届く感じ、ちょっと気持ちいいよね。

    鉄道から広がった統一時刻は、1880年の法律でイギリス本土の法定時刻になったんだ。

    ちなみにブリストルには、昔の地方時とロンドン時の差を示すために、分針が2本ある時計が残ってる。

    私は分針が1本でも寝坊するから、2本あったら言い訳だけが正確になりそうだな。

  37. 年越しの玉は時報

    船の時報用タイムボールが年越しの球の演出にもつながった話。

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    分針が2本ある時計の話から、今度は空から落ちてくる球の時報を思い出したんだ。

    グリニッジ天文台には、1833年からタイムボールっていう球があって、毎日午後1時に落ちるんだよ。

    船が遠くから見て、自分の時計をぴったり合わせるための道具だったんだって。港から見える大きな合図だから、声を張り上げなくても時刻が伝わるわけ。

    時計合わせのために球を落とすって、ずいぶん思い切った合図だよね。

    その球が落ちる景色は、のちにニューヨークのタイムズスクエアの年越しにもつながっていく。

    1907年の年末、ワン・タイムズスクエアの旗竿から初めて球が下ろされて、1908年の始まりを知らせたんだ。

    初代は鉄と木でできていて、直径は約1.5メートル、重さは約318キロ。さらに25ワットの電球を100個つけて光ってた。

    318キロの光る球が降りてくるんだから、もう年越しというより小惑星の歓迎式典じゃん。いや、旗竿から下ろすから大丈夫なんだけどさ。

    港で船の時計をそろえた実用品が、お祝いの真ん中で新年を知らせる演出になるの、時間の使い道って面白いよね。

    分針が2本あったら、片方はこの球が落ちるまでの残り時間専用にしたいな。たぶん私は、見ても寝るけど。

  38. エジソンのしゃべる人形

    エジソンは蓄音機で話す人形を作ったが、短命に終わった。

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    電球を100個も光らせた話から、発明家のエジソンを思い出したんだ。あの人、音まで人形に入れようとしてた。

    エジソンは1877年に蓄音機を発明して、その年の11月には、人形にしゃべらせたり歌わせたり泣かせたりする玩具を考えてたんだって。

    人形が泣くなら、夜中に背中を回して寝かしつけるのかな。いや、回すのは再生のためで、親が徹夜する装置ではない。

    実際に発売されたのは1890年4月。胴体の中に小さな蓄音機が入っていて、背中のクランクを回すと、ろうでできた円筒レコードの声が鳴る仕組みだった。

    録音を担当したのは主に少女たちで、1890年の2月から5月にかけて、メリーさんの羊みたいな童謡や童話を吹き込んだらしい。1本に入るのは約18秒から22秒だけ。

    つまり人形の昔話は、信号待ちより短い。昔々あるところに、までで終わる勢いだよね。

    ただ、声は当時から聞き取りにくくて、運ぶ途中で壊れたり、動かなかったりして、返品も続いた。生産は1890年2月から約3か月で打ち切りになったんだ。

    しゃべる担当なのに、肝心の言葉が伝わりにくいのは切ないな。人形も中で、ちゃんと話してるんだけどなあって思ってそう。

    しかも売られなかった人形用の蓄音機は、1896年までに捨てられたとスミソニアン博物館は伝えてる。声を残す機械が、声を聞かれないまま消えるの、ちょっと深夜ラジオ向きの寂しさだ。

  39. 感謝祭を動かした詩人

    メリーさんの羊の作者ヘイルは、感謝祭の全国的な祝日化をリンカーンに求めた。

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    声を残す機械がスミソニアン博物館で語られてるって聞くと、今度はメリーさんの羊の作者を思い出すんだ。

    あの歌の元になった詩を書いたのは、サラ・ジョセファ・ヘイル。1834年に出た子ども向けの本にも、メリーさんの羊という題で収められてたんだって。

    ヘイルは詩人で小説家、それに女性向け雑誌の編集者でもあったんだ。言葉を書く人が、雑誌のページをめくるみたいに世の中も少し動かしたわけ。

    1863年9月28日、ヘイルはリンカーン大統領へ手紙を書いて、感謝祭を全国で決まった祝日にしてほしいと頼んだ。

    すると同じ年の10月3日、リンカーンは11月の最後の木曜日を、感謝と祈りの日にするって布告したんだ。

    詩を書いた人の手紙が、国じゅうの予定表を動かしたんだよ。手紙1通で全国の七面鳥が正座する規模じゃん。いや、七面鳥は正座しないけどさ。

    ちなみに歌でよく知られてる短い部分の後には、先生が子どもたちに、動物に親切にすれば心を開いてくれるって語る場面が続くんだ。

    人形の声は届きにくかったけど、羊の詩の声は、大統領のところまで届いたんだな。紙って、ときどき蓄音機より声が大きい。

  40. 100枚の推理小説

    暗号クロスワードの名手が、100枚を並べ替えて解く推理小説を書いた話。

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    紙の声って、まだ言い忘れがあったんだ。暗号クロスワードを世に出した人の話なんだけどさ。

    エドワード・パウィス・マザーズは、トルケマダという筆名で、1925年にサタデー・ウェストミンスター・ガゼットへ暗号クロスワードを載せたんだって。

    それから1926年から1939年まで、オブザーバー紙で670週も問題を出し続けた。ほぼ毎週、言葉の迷路を置いていく人だよね。

    当時の編集部に、今週も迷路を納品しますって顔で来てたのかな。原稿を受け取る人の机だけ、ずっと脱出ゲーム会場みたいになりそう。

    マザーズは1934年のトルケマダ・パズル・ブックの最後に、カインの顎骨っていう推理パズル小説を忍ばせたんだ。

    これがもう、読者にやさしくない方向で見事でさ。100枚のページが正しい順番じゃないまま出されて、並べ替えながら6人の被害者と犯人を解くの。

    本を読むって、普通は最初から順にページをめくるじゃん。でもこれは、まず本そのものを組み立て直さなきゃいけない。説明書がバラバラの家具みたいな読書だ。

    暗号クロスワードは、手掛かりをたどって唯一の答えに着く遊びでしょ。その作法を小説に持ち込むと、物語を読む行為まで丸ごと推理になるんだよ。

    しかもマザーズが亡くなった後、遺品の中から、彼のクロスワードがきっかけで結婚した読者夫婦の結婚ケーキが2切れ見つかったんだって。

    ケーキまで手掛かりとして保管してたのかな。食べるタイミングを解く問題だけは、どうか出題しないでほしいね。

  41. トルケマダの審問所

    トルケマダとスペイン異端審問所の制度と王権の結び付きを語る。

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    結婚ケーキを手掛かりに保管してたかもしれない、あのマザーズの筆名がトルケマダだったんだ。ケーキの次に審問所が出てくる読書会、だいぶ胃が重いね。

    このトルケマダは、15世紀スペインのドミニコ会士、トマス・デ・トルケマダから取られた名前なんだって。

    彼は1483年にスペイン異端審問所の異端審問官総長になって、カスティーリャから、のちにはアラゴンにもまたがる制度を整えていった。アラゴンの話はまた別の機会に取っておこう。

    異端審問所は1478年にカスティーリャ王国で設けられた宗教裁判の制度で、表向きは異端を取り締まるためのものだった。でも、統一の途中だった王の力を強める役目もあったんだ。

    信仰の話に見えて、国の運営まで結び付いてるわけだね。お菓子の型をそろえるみたいに、国じゅうの手続きを同じ形にしていく感じかな。

    トルケマダは1484年から1498年にかけて教令を出して、審問の手順を決めた。その決まりは、後の異端審問官たちにも使われたんだ。

    私なんて洗濯の手順を決めても、靴下を干す段階で急に制度が崩壊するのにね。

    ちなみに異端審問そのものは、中世ヨーロッパ全体にあった制度名なんだ。ただ、スペイン異端審問所は王権との結び付きが特に強い、別の組織だった。

    在任中の処刑者は約2000人とも言われるけど、これは史料の読み方で幅があって、確定した数じゃない。トルケマダが死んだ後も審問所は続いて、1834年にようやく廃止されたんだ。

    筆名なら暗号小説の影に隠れられるけど、本物の名前のほうは、歴史から全然かくれんぼできなかったんだね。

  42. イザベリン色の謎

    イザベリン色の由来と、イサベル1世にまつわる逸話の不確かさ。

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    本物の名前から歴史に隠れられなかったイサベルで、もう1つ妙な置き土産を思い出したんだ。イザベリン色っていう、灰みのある淡い黄褐色のことだよ。

    イザベリンって鳥の名前かと思うじゃん。いや、色の名前なんだ。

    動物の羽や毛の色を説明するときにも使われて、砂っぽい淡いバフ色を思い浮かべると近い。

    名前の由来は、カスティーリャ女王イサベル1世だという説があるんだけど、実は誰の名前から来た色なのか、はっきり決まっていないんだ。

    しかも英語でイザベラ色という言い方が確認できる古い例は1600年で、エリザベス1世の衣装目録に出てくる。色名って、名札だけ先に残して本人が迷子になることあるんだね。

    有名なのは、イサベル1世がグラナダを包囲している間、陥落まで下着を替えないと誓ったから、その色になったっていう話。

    ただしこれは後世の逸話とみられていて、語源の確かな説明ではないんだって。別のイサベラがオステンド包囲で同じように誓ったという類話もあるらしい。

    砂漠の鳥の淡い羽毛にも使われる言葉だから、鳥からすれば背景に溶け込むための正装なのかもね。背景です、何もいません、って羽で言い張ってる。

  43. 船を隠さない迷彩

    動物の隠蔽色研究から生まれた、船を惑わせるダズル迷彩の話。

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    砂漠の鳥が背景に溶け込む話で思い出したんだけど、動物の隠蔽色を本気で研究した画家がいたんだ。

    アボット・ヘンダーソン・セイヤーっていう人で、体の上側は暗く、下側は明るくすると輪郭が見えにくくなると考えた。

    光が上から当たると下側には影ができるから、そこを明るくして影をならすわけ。立体を平らに見せる、化粧の逆バージョンみたいな仕組みだね。

    セイヤーは1909年、息子のジェラルドと一緒に、動物の隠蔽色について本まで出してる。

    ところが第一次世界大戦になると、船の迷彩は隠れるのを諦めた。いや、海の上で急に目立ちたがり始めたわけじゃないよ。

    英国のノーマン・ウィルキンソンが提案したダズル迷彩は、強い色と幾何学模様で船の形、大きさ、進行方向を読み違えさせるものだった。

    潜水艦から魚雷を撃つには、相手までの距離や針路を計算しなきゃいけないじゃん。その計算を、目で見た段階からぐらつかせる錯視装置なんだ。

    1917年に英国海軍が採用して、アメリカ海軍も第一次大戦中に試験した。船1隻が、海に浮かぶ巨大な算数のひっかけ問題になったわけ。

    ただ、ダズル迷彩が実戦でどれほど沈没を防いだかは、諸説あるんだけど評価が定まってない。海軍の史料にも、有効性には強い疑問があるという見方が併記されてるんだって。

    隠れる迷彩も、惑わせる迷彩も、相手の目に計算ミスをさせる作戦なんだね。目って、案外すぐ問題文を読み飛ばす。

  44. 万華鏡は模様の発明機

    万華鏡は鏡の反射で模様を生み、装飾の道具として考案された。

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    潜望鏡で使う鏡って、光の向きを変える道具じゃん。その反射を何度も重ねて、模様を生み出す道具が万華鏡なんだ。

    万華鏡を考えたのは、スコットランドの科学者デイヴィッド・ブリュースター。1816年、光の偏光を研究している途中で思いついたんだって。

    偏光っていうのは、光の揺れ方がある向きにそろった状態のこと。縄跳びの縄を上下にだけ揺らすみたいな感じだね。

    筒の中では、角度を付けた鏡が小さな欠片を何度も反射する。だから、のぞき穴から見ると同じ形が対称にずらっと並ぶんだ。

    小片を少し動かすだけで、別の模様が現れる。模様を描くんじゃなくて、反射に描かせてるわけ。

    ブリュースターはこれを単なる玩具じゃなく、装飾のデザインを考える道具にもしたかった。1817年7月には、美しい形と模様を見せて装飾美術に役立つ光学器械として特許も取ってる。

    当時のブリュースターに、筒の中へどんな欠片を最初に入れたのか、どうでもいいけど聞いてみたいな。ボタンだったら急に親しみが湧く。

    万華鏡という名前のもとになった言葉も、ちゃんと中身そのままなんだ。美しい、形、見る、を組み合わせた造語らしい。

    名前を聞いただけで、だいたい仕事内容が伝わる。履歴書に特技として反射で模様を量産って書いたら、ちょっと採用したくなるね。

  45. アラゴンは連合王国

    アラゴン王冠は制度を残した領域が君主を共有する連合的な政体だった。

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    万華鏡は小さな欠片が集まって模様になるけど、アラゴンも見た目よりずっと寄せ集めだったんだ。前にトルケマダから脇へ置いたアラゴンの話、ここで回収するね。

    アラゴン王冠は、1137年にアラゴン王女ペトロニラとバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世が婚約したことを起点にできた政体なんだ。

    ただし、1つの大きなアラゴン国が完成したわけじゃない。

    アラゴン、カタルーニャ、バレンシアみたいな領域は同じ王を戴きつつ、それぞれ議会も法律も貨幣も役人も残してた。

    同じ屋根の家族なのに、財布もルールも別々みたいなものだね。私の部屋だけ家賃を払わなくていい制度なら、ぜひ採用したい。

    1469年には、アラゴンの王位継承者フェルナンドとカスティーリャのイサベルが結婚した。1479年に2人がそれぞれ王位に就いても、両方の王冠は制度を残したまま君主を共有してたんだ。

    こういう仕組みを複合君主政って呼ぶ。万華鏡みたいに1枚の絵に見えても、筒の中では別々の欠片がちゃんと残ってるわけ。

    しかもアラゴン王冠は地中海へ進出して、シチリアやナポリにも強い影響を及ぼした。寄せ集めの王冠、意外と行動範囲が広いんだよね。

    ボタンを入れた万華鏡から、地中海まで見えてきた。ブリュースターも筒の中身がこんな遠征をするとは思わないよね。

  46. バレンシアの水裁判所

    バレンシアでは農家が選ぶ代表者が用水争いを公開で裁く。

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    地中海まで進出したアラゴン王冠の話から、今度はバレンシアの農地へ降りてみよう。畑の水って、少ないときほど一滴が大臣みたいな顔をするんだ。

    バレンシアには、灌漑用水をめぐる農家どうしの争いを扱う水裁判所がある。起源は9世紀から13世紀のアル=アンダルス期までさかのぼるんだって。

    裁判官に当たる代表者は、用水路を使う人たち自身が選ぶ。水の事情を知らない人が、蛇口の前で腕組みして決めるわけじゃないんだね。

    審理は毎週木曜の正午、バレンシア大聖堂の使徒の門の前で開かれる。しかも口頭で公開だから、水路がこっそり水を横取りしても、わりと逃げ場がない。

    そこで用水の配分や規則違反を、すばやく裁いてきたんだ。畑にとっては、水待ちの時間がそのまま困りごとになるからね。

    2009年には、ムルシアの善良な人々の評議会と一緒に、ユネスコ無形文化遺産に登録された。争いを長引かせない知恵まで、ちゃんと受け継がれてるわけ。

    千年以上続くとか、ヨーロッパ最古の裁判所だとか言われてるんだけど、正確な創設年には諸説ある。古い話ほど、最初の1滴を誰が流したか曖昧になるんだよね。

    ちなみに用水に関する言葉には、アラビア語由来のものが多く残ってる。水路は水だけじゃなく、昔の言葉まで運んでたのかもしれない。

  47. ムルシアの天日パプリカ

    ムルシアの赤い実を乾かして作る、香りと色を生かすパプリカ粉の話。

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    水路が昔の言葉まで運んだなら、その水で育った赤い実も気になってくるじゃん。ムルシアには、ピメントンというパプリカ粉があるんだ。

    完熟した赤いトウガラシを乾かして、細かく砕いたものだよ。辛さを足すというより、料理に赤い色と香りを広げる役なんだって。

    使うのは、丸みのあるボラという種類の実。真っ赤に熟したところを使うから、粉になっても色がしっかり残るわけ。

    昔ながらの作り方では、収穫した実を日光で乾かす。畑のそばで赤い実が並んでたら、地面まで夕焼けを製造してるみたいだね。

    今は乾燥室で仕上げる作り方も認められていて、ラベルには天日乾燥か乾燥室乾燥かが書かれるんだ。乾かし方まで名札を付けるの、なかなか律儀だよね。

    このムルシアのパプリカ粉は、ヨーロッパ連合で2001年3月8日に保護原産地呼称として登録された。2025年には、産地の範囲がムルシア州全域へ広がったんだ。

    州全域って聞くと、パプリカ粉が地図を赤く塗りつぶしたみたいだけど、もちろん粉を空からまいたわけじゃないよ。掃除が大変すぎる。

    ちなみにスペインには、木材の煙で乾かして燻製の香りを付けるラ・ベラ産もある。でもムルシア産は天日か乾燥室で仕上げるから、基本は燻製じゃないんだ。

    同じ赤い粉でも、乾かし方で香りの行き先が変わる。太陽の仕事って、静かだけど案外おしゃべりだね。

  48. イザベリンヒタキ

    イザベリン色を名に持ち、広域を渡るイザベリンヒタキの話。

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    パプリカ粉の赤からイザベリン色まで来たのに、肝心の生き物を置き去りにしてた。イザベリンヒタキっていう鳥がいるんだ。

    イザベリンは、鳥の羽の色では淡い砂色や灰黄色を表す言葉で、その色名がそのまま名前に入ってる。色見本から鳥が1羽、てくてく抜け出してきたみたいじゃん。

    この鳥の学名はオエナンテ イザベリナ。テミンクという人が1829年に記載した種なんだって。

    繁殖するのは東ギリシャやトルコから、中国東北部まで。寒い時期は北アフリカや東アフリカ、アラビア半島、パキスタン方面へ移って越冬するんだ。

    砂色の羽で、ずいぶん広い地図を渡るわけだね。砂場から地球儀まで、そのまま歩いていくような移動距離だ。

    あと英語名にあるヒタキの部分は、ウィートイヤーと呼ばれてる。でも小麦の穂って意味じゃないらしい。

    目立つ白い腰から、白とお尻をつないだ言葉が変化したものだと言われてるんだって。鳥の名前って、ときどき観察した人の視線がやけに正直なんだよね。

    淡い色に上品な名前をもらったのに、最後は白いお尻が由来かもしれない。自然界の名付け、急に親戚のおじさんが混ざるなあ。

  49. マコーミックの刈取機

    小麦の語から、マコーミックの刈取機とその背景をたどった話。

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    白いお尻の鳥から小麦へ飛ぶのは、ちょっと強引だけどさ。綴りの中に小麦が見えると、畑の景色まで連れてきちゃうんだよね。

    そこで出てくるのが、マコーミックの刈取機。1831年にサイラス・マコーミックが実演した、馬に引かせて小麦を刈る機械なんだ。

    ただし、彼が1人でゼロから発明した、という話には諸説あるんだけどね。父のロバートが作りかけていた試作が土台で、マコーミック家に奴隷として置かれていたジョー・アンダーソンの協力も大事だったと言われてるんだって。

    発明って、ひらめいた人だけを写真の真ん中に立たせがちだよね。後ろで支えた人たちも、ちゃんと畑の風を受けてたはずなのに。

    マコーミックは1847年にシカゴ郊外へ工場を開いて、部品をそろえた規格で作るようにした。壊れたところだけ取り替えやすくして、同じ刈取機をどんどん作れる形にしたわけ。

    1880年代半ばには、1年で5万台を超えて売っていたらしい。刈取機のほうも、今日は何ヘクタール担当ですかって、朝から馬に出勤簿を差し出してきそうだな。

    1851年のロンドン万国博覧会にも展示されて、評議会メダルを受けたんだ。それはまた後で話したい小さな寄り道だね。

    鳥の名前では白いお尻が目立って、小麦畑では刃が目立つ。地球は案外、目立ったものから名前を付けられていくのかも。

  50. シカゴを持ち上げた街

    シカゴは下水の勾配を作るため、道路と建物を持ち上げた。

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    小麦畑で刃が目立つって話から、今度はシカゴの街そのものが持ち上がった話をしたくなった。

    1852年のシカゴは低い湿地に広がっていて、下水をシカゴ川へ流すための傾きを、地面の下にうまく取れなかったんだ。

    そこでイリノイ州議会がシカゴ排水委員会を置いて、下水を流す仕組みを本気で考えることになった。

    水は高いところから低いところへ行きたがるから、下水管にもちゃんと坂道が要る。平らすぎる街だと、排水はストローを机に寝かせたままジュースを吸おうとする感じで、進んでくれないんだよね。

    それで市は1855年から1856年にかけて、新しい道路の高さを決めて、道路と歩道を上げた。下に下水管を通す空間と、川へ向かう傾きを作るためだよ。

    道路だけ高くしたら建物の入口が置いていかれるから、工事は既に建っていた建物にも及んだ。煉瓦造りのホテルや銀行まで、ジャッキで持ち上げて新しい地面の高さに合わせたんだ。

    ホテルを上げる前に、泊まってる人へ今日は建物が少し上がりますけど荷物はそのままでいいですかって聞いたのか、どうでもいいのに気になるな。

    道路が上がったあとも、もとの階が地下室みたいに残った例があるらしい。つまり地下って、地面より下というより、今の地面より下なんだよね。

    街の高さを変えると、地下の意味まで引っ越す。地面って動かない顔をしてるけど、案外そうでもないんだな。

  51. ロンドン万国博覧会

    マコーミックの刈取機も展示された1851年のロンドン万国博覧会の話。

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    地面の高さが変わるなら、建物だってずっと同じ場所にいるとは限らない。マコーミックの刈取機を見せていたロンドン万国博覧会も、会場そのものが後で引っ越してるんだ。

    1851年5月1日、ロンドンのハイドパークで諸国民の産業作品大博覧会が始まった。ヴィクトリア女王とアルバート公のもとで開かれた、国際博覧会の先駆けだよ。

    10月11日までの会期に、600万人を超える人が来たんだって。規模がもう、近所の文化祭のテンションじゃない。

    会場の水晶宮は、ジョセフパクストンが設計した、鉄とガラスの建物だった。規格化した部材を組み立てる仮設建築で、約2000人が造り、1851年1月末に完成してる。

    水晶宮って聞くと、砂糖でできた宮殿を想像しちゃうけど、違う違う。透明なガラスをたっぷり使った、当時としてはかなり目を引く建物なんだ。

    しかもハイドパークの大木を切らずに済むように、巨大な吹き抜けの翼廊を設計に足したらしい。木をよけて建物を広げる発想、庭の植木鉢を避ける感覚をものすごく大きくした感じだね。

    展示は約1万4000の出品者による10万点を超える品で、あのマコーミックの刈取機もアメリカの展示として並び、評議会メダルを受けた。小麦畑の機械が、ロンドンの大舞台まで来てたわけだ。

    博覧会の後には展示品の一部をもとに、1852年に製造博物館ができた。これが後のヴィクトリアアンドアルバート博物館へ育っていくんだ。

    水晶宮は1854年にシドナムへ移されて、1936年の火災で焼けてしまった。建物は消えても、集めた品の行き先は博物館として残ったんだよね。

    引っ越せる建物、木を避ける会場、持ち帰れる展示品。家も荷物も、最初から部材ごとに番号を振っておけば、模様替えが博覧会級になりそうだな。

  52. らせんの戦争記録

    トラヤヌス記念柱は、らせんの浮彫で戦争と大工事を記録した石の記念碑。

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    博物館に品が残ったなら、建物そのものを写して持ち帰る方法もあるんだ。ロンドンのヴィクトリアアンドアルバート博物館には、キャストコートっていう石膏の複製を集めた展示室がある。

    そこにはローマのトラヤヌス記念柱を写した、1864年製の石膏像が立ってる。高すぎるから、1873年に開いた展示室へ入れるため、柱を上下に分けて展示してるんだって。

    元になった柱は紀元113年、ローマ皇帝トラヤヌスがダキア戦争で勝った記念にローマへ建てたものなんだ。戦争は101年から102年、それから105年から106年に戦われた。

    柱の表面には、らせん状に200メートルを超える浮彫が続いてる。155の場面に、人や動物が2,500以上も登場する戦争の記録なんだよね。

    200メートルって、柱をほどいたら校庭の端から端まで戦争の話が続くみたいな長さじゃん。いや、校庭でほどいたら先生に片づけなさいって怒られるけど。

    台座の碑文には、大事業のために掘り下げた丘と土地の高さを示す趣旨が刻まれている。勝利だけじゃなく、ここまで地面を削ったんだぞっていう工事の報告まで残してるわけだ。

    しかも台座のローマ字は、トラヤン体として現代の書体づくりでも広く手本にされてる。戦争の記念柱が、遠い時代の文字のお手本にもなってるの、石って意外と仕事の幅が広いな。

  53. ダチアは車になった

    ダキアの名を継ぐ車ブランド、ダチアの始まりと発展の話。

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    石に残ったダキアって名前、実はルーマニアでは車のブランドとして走ってるんだ。文字のお手本だった名前が、今度は道路に出てくるわけ。

    ダチアって聞くと、柱をほどくための道具かなって一瞬思うけど、違う違う。ルーマニアの自動車ブランドだよ。

    始まりは1968年で、ミオヴェニ工場が動き出したのと一緒に、最初のダチア1100が作られたんだ。これはルノー8をもとに、許可を受けて作った車だった。

    翌1969年には、ルノー12をもとにしたダチア1300の生産も始まる。まず別の会社の車をきちんと作って、車づくりの土台を積み上げた感じだね。

    それから1999年、ルノーがダチアの経営権の51パーセントを取得した。半分を少し超えると、車のハンドルを握る側にもなれるんだ。

    2004年には、低価格の車として開発されたロガンが発表された。必要なものをちゃんと車にして、値段を抑えるっていう考え方が見えるんだよね。

    ミオヴェニ工場では、2025年までにダチア車が累計800万台も作られたんだって。校庭に並べたら先生に片づけなさいって怒られるどころじゃない、校庭が先にあきらめるな。

  54. 水晶宮の初モーターショー

    水晶宮は1903年、最初の自動車展を開いた会場にもなった。

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    ダチア1300みたいな車を披露する自動車ショー、その会場をたどると水晶宮に戻るんだ。ロンドン万国博覧会で名を上げた、あのガラスの建物ね。

    水晶宮は1851年の万博から半世紀後、今度は新しい乗り物を見せる舞台にもなった。建物のほうは、また時代の目玉が来たよって少し得意そうだったかも。

    イギリスの自動車製造販売者協会は1902年7月にできて、翌1903年1月、水晶宮で最初の自動車展を開いたんだ。自動車が新しい技術として、人前でお披露目される場所だったわけ。

    ただ走るだけなら道路でいいのに、わざわざ会場に集める。新しい車を並べて、こんな仕組みで動くんだよって見せるのは、新作のおもちゃを机いっぱいに広げる感じだよね。

    この展示会はのちにオリンピアへ移って、そこで32年間も開かれたんだって。車づくりにとって、ショーは技術を見せる大事な舞台になっていったんだ。

    ちなみに1903年の水晶宮では、ジョン・ウェラーが20馬力のツーリングカーを発表してる。彼の事業は、後のエーシー・カーズにつながるんだ。

    万博のガラス宮殿で車がデビューして、やがて道路へ出ていく。建物は動かないのに、話だけずいぶん遠くまで走るね。

  55. 水晶宮とサッカー協会

    水晶宮はクリスタル・パレスとサッカー協会の初期史にもつながっている。

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    水晶宮から道路へ車が走り出したと思ったら、今度は芝生の上にボールが転がっていくんだ。水晶宮って名前は、サッカークラブにも残ってる。

    クリスタル・パレス・フットボールクラブは、今のプロクラブとしては1905年4月14日にサッカー協会への加盟を認められたんだって。

    でも、話はそこで終わらない。クラブ側の調査では、水晶宮会社のクリケット選手たちが1861年にチームをつくっていて、1863年にはその関係者が仲間とサッカー協会の設立や最初の競技規則づくりに加わったとしてるんだ。

    つまり展示会場の近くで、ボールをどう蹴るかの約束まで整えていたわけ。みんなで遊ぶ前にルールブックを開くの、町内運動会で急に審判講習会が始まるみたいで、ずいぶん本気だよね。

    ただし、1861年のチームと今のクラブがずっと同じクラブとして続いているのかは、諸説あるんだけどね。クラブは連続していると主張していて、一方で1905年をプロクラブの出発点と見る考えもあるんだ。

    水晶宮の展示会場は、車を並べる場所になる前も後も、近くの競技場を含めて近代サッカーの初期と結び付いていたんだな。建物は動かないのに、また話が走り出した。

    その競技場ではサッカー協会カップの決勝も開かれたんだけど、それは別の機会に芝生の上で話そう。ガラス宮殿、車だけじゃなくボールまで反射してそうだ。

  56. 世界初の地下鉄

    1863年に世界初の地下鉄として開業したメトロポリタン鉄道の話。

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    ガラス宮殿の近くでサッカーの約束が整った1863年、ロンドンでは地面の下にも新しい道が走り出してたんだ。

    その年の1月10日、メトロポリタン鉄道が世界初の地下鉄として一般営業を始めたんだって。

    開業したのは、パディントンからキングス・クロスを通ってファリンドン・ストリートまでの約5.6キロ。

    初日だけで約4万人が乗ったらしくて、ロンドン中が地下へ引っ越したのかと思うけど、もちろん乗車しただけね。

    線路の大半は、地面を掘り下げてトンネルを造り、上をもう一度ふたする開削工法で造られたんだ。道路の下に長いお弁当箱を置いて、ふたを閉め直す感じかな。

    しかも開業時の列車は蒸気機関車だった。地下鉄なのに湯気の出る電車、って言いたくなるけど、電車じゃなくて蒸気機関車だよ。

    地下区間では蒸気や煤の問題もあったそうで、世界初の便利さには、ちょっと煙たいおまけまで付いてきたんだな。

  57. メガネグマの素顔

    パディントンとペルー、メガネグマの模様や来歴をたどる話。

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    パディントン駅のパディントンって名前、実はクマのパディントンにもつながってるんだ。作者のマイケル・ボンドが、駅の名前から付けたらしいよ。

    最初の本が出たのは1958年。題名はパディントンというクマで、物語のパディントンはペルーから来たことになってる。

    そこでペルーと聞くと出てくるのが、メガネグマ。南アメリカ生まれで、クマの仲間ではこの地域にいる唯一の種類なんだって。

    目の周りに薄い色の毛があって、それが眼鏡みたいに見えるからメガネグマ。名前の付け方が、急に見たまんまで気持ちいいよね。

    しかもその模様は、1頭ずつ違うんだ。カメラの画像から、どの個体かを見分ける手掛かりにもなるらしい。

    人間なら社員証の写真みたいな役目だけど、本人は首から下げなくていい。便利な顔パスだな。

    ベネズエラからボリビアまでの熱帯アンデスに暮らしていて、1982年から危急種とされている。長くそこにいるのに、安心して暮らせないのは切ない話だよ。

    パディントンのモデルがメガネグマそのものだったかは、作者が明言したわけじゃないんだ。ただ、ペルー出身の設定から結び付けて紹介されることは多いみたい。

    もし作者に会えたら、どうでもいいけど駅名からクマの名前を決めた瞬間、帽子もセットで浮かんでたのか聞いてみたい。名前だけ先に歩き出したのかな。

    ちなみにメガネグマは、絶滅した巨大な短顔クマ類の最後の現生の近縁種ともされるんだって。眼鏡をかけた顔の奥に、ずいぶん遠い親戚の気配が残ってるんだな。

    個体ごとに違う眼鏡模様なら、落とし物対策に社員証ならぬ顔証を作るのもありかも。クマにだけは、提出先を聞かれたくないけどね。

  58. 世界最大のジャガイモ庫

    ペルーの国際ポテトセンターは世界最大級のジャガイモ遺伝資源庫を守っている。

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    メガネグマの故郷でもあるペルーには、国際ポテトセンターっていう施設があるんだ。名前はちょっと八百屋さんの全国大会みたいだけど、かなり大事な場所なんだよ。

    そこにはジャガイモやサツマイモ、アンデスの根菜やいも類の遺伝資源庫があって、未来の栽培に役立つよう大切に保存してる。

    ジャガイモだけでも、在来種、野生種、改良品種を合わせて7000点を超えるコレクションがあるらしい。世界最大級なんだって。

    食べるジャガイモだけでも品種は4000を超して、その多くは南アメリカのアンデスにある。普段は茶色い1種類みたいな顔をしてるのに、親戚がものすごく多いんだな。

    しかもジャガイモみたいに、種よりいもや苗で増やす作物は、種だけをしまっておけば安心というわけじゃない。

    だから試験管の中で小さな植物のまま育てたり、ものすごく低い温度で凍らせて保存したりするんだ。レシピ本だけじゃなく、料理人ごと冷凍して残すような発想だよね。

    こうして残した系統には、病気に強いものや、乾燥や霜に耐えやすいものがある。必要になったとき、新しいジャガイモを育てる材料になるわけ。

    私なんて冷蔵庫の奥で芽が出たジャガイモを見つけるたび、育てるべきか捨てるべきかでしばらく固まるのにね。国際ポテトセンターなら、その迷いに研究設備で答えてくれそうだ。

    ちなみにジャガイモは、人が食べる量では米と小麦に次ぐ世界で3番目の食用作物とされてる。地味に見えて、食卓の後方支援が桁違いなんだ。

    いも1個を転がしても、7000点の仲間がいると思うと、急に呼び捨てにしにくくなるな。

  59. 魔法瓶は低温研究から

    魔法瓶は低温研究のためのデュワー瓶から生まれた。

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    7000点のジャガイモを凍らせて残す話で、冷たさを逃がさない入れ物が気になってきたんだ。研究室ではデュワー瓶って呼ばれる瓶が活躍してるらしいよ。

    これ、家庭にある魔法瓶のご先祖なんだ。

    1892年、低温現象を研究していたスコットランドの化学者で物理学者、ジェームズ・デュワーが、ガラス容器を二重にして、そのすき間を真空にした真空フラスコを考えたんだって。

    真空は、熱を運ぶ空気がほとんどいない状態。人がいないと伝言ゲームが進まないみたいに、熱も伝わりにくくなるわけ。

    だから熱がじかに伝わるのも、空気が巡って運ぶのも大きく抑えられる。内側を光をはね返しやすくすると、熱が光みたいに飛んでいく分も抑えられるんだ。

    冷たい液体を守るための道具が、温かい飲み物も守れる。熱を入れるか出すかの違いで、瓶は意外と公平なんだよね。

    デュワーさんには、どうでもいいけど完成した瓶に熱いお茶を入れてみたことがあるのか聞いてみたいな。低温研究の机で、お茶だけ妙にほかほかしてたらちょっと和むじゃん。

    1904年には、ドイツのガラス職人ラインホルト・ブルガーたちが、割れやすい内側のガラス瓶を金属のケースで守る家庭用の真空瓶を商品にしたんだ。

    サーモスという名前は、熱を表すギリシャ語が元になってるらしいよ。魔法っていうより、空気を減らして熱の通り道を断る、かなり理屈っぽい手品だったわけ。

    今もデュワー瓶は、液体窒素みたいなものを扱う実験室で使われてる。ジャガイモの仲間を凍らせる現場にも、台所の魔法瓶と同じ発想がいると思うと、急にお弁当箱の横顔が研究者っぽく見えてくるな。

  60. 水晶宮のFA杯決勝

    水晶宮では1913年に12万人超が集まるサッカー協会カップ決勝が開かれた。

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    お弁当箱の横顔が研究者っぽいって考えてたら、急にガラス張りの研究所みたいな水晶宮まで頭に出てきた。あそこでサッカー協会カップの決勝が開かれてたんだよ。

    そもそもの第1回決勝は、1872年3月16日にロンドンのケニントン・オーバルで行われたんだ。ワンダラーズがロイヤル・エンジニアズを1対0で破って、入場料は1シリング、観客はおよそ2000人だった。

    今の大決勝を思うと、校庭の端っこで伝説が始まったみたいな人数だよね。

    しかも当時はクロスバーもゴールネットもなくて、フリーキックもペナルティーキックもなかったんだ。ゴールは、柱の間を通ったかどうかをみんなで見届ける、洗濯物の物干し竿すらないサッカーだったわけ。

    唯一の得点を決めたモートン・ベッツは、エー・エイチ・チェッカーっていう偽名で出場してたらしいよ。得点者の発表で急に探偵小説が始まるな。

    ワンダラーズは第1回を含む最初の7回の決勝で5度も優勝したんだけど、初代王者だけは翌年の決勝に自動で出られたんだって。この挑戦杯方式が実際に使われたのは、その1度だけだった。

    王者だから決勝から参加でいいよ、ってことかと思ったけど、寝坊しても決勝へ直行できる特別通行証じゃないからね。

    決勝が水晶宮へ移ったのは1895年で、1914年まで続いた。水晶宮は1851年のロンドン万国博覧会のために造られた巨大なガラス建築で、移された先の公園には大観衆を入れられる競技場も整えられたんだ。

    そして1913年のアストン・ヴィラ対サンダーランドには、12万1919人が集まった。これは今も破られていない、サッカー協会カップ決勝の最多観客記録なんだって。

    ガラスの宮殿のそばに12万人。お茶を保温する瓶から始まった連想なのに、最後は街ひとつ分の熱気まで閉じ込めちゃったな。

  61. 世界最大のガスホルダー

    ケニントン・ガスホルダー第1号は完成当時世界最大だった都市ガス貯蔵設備。

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    12万人の熱気を閉じ込めた水晶宮の近くには、今度は本当に街のガスを閉じ込める大きな入れ物があったんだ。ケニントン・オーバルの北側に、ケニントン・ガスホルダー第1号がある。

    今ある第1号は、1877年から1879年にかけて、ガス技師のコーベット・ウッドオールが設計したもの。完成した当時は、世界最大のガスホルダーだったんだって。

    ガスホルダーっていうのは、都市ガスを低い圧力でためて、必要な量に合わせて送り出す設備なんだ。中の鐘みたいな部分が上下して、ガスの量に合わせてふくらんだり縮んだりする。

    巨大な金属の鐘が、街のみんなが夕飯を作る時間になると、よしよし、今日は私が少し沈む番か、って働いてたわけだ。

    第1号は、錬鉄でできた案内枠を早い時期から使っていて、あとから容量を2倍にできたらしい。棚を増やせる本棚みたいだけど、中身は本じゃなくて街じゅうの火なんだよね。

    この場所には、もともと使われなくなった給水池を転用した先代のホルダーが、1847年に完成していたんだ。水をためた場所が、今度はガスをためる係へ転職した感じだね。

    現在の第1号は2016年にイギリスのグレード2指定建造物になった。でもケニントンのガスホルダー群は今は使われておらず、再開発の対象にもなってる。

    街の夕飯を支えた大きな鐘も、役目を終えると急に歴史の先生みたいな顔になるんだな。

  62. フェニックスは再生の町

    フェニックスは古い運河の地で水路とともに再生した町。

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    歴史の先生みたいな顔、で思い出したんだけど、アリゾナ州のフェニックスって町そのものが再生の名前を背負ってるんだ。

    フェニックスは、灰からよみがえる不死鳥のこと。実在する鳥の名前じゃないのに、町の看板を背負うくらい働き者なんだよね。

    この町は1868年、昔の文明の遺跡から新しい町が立ち上がる姿になぞらえて、フェニックスと名付けられたって言われてるんだって。提案したのはダレル・ダッパとされてるよ。

    再生の始まりは、実は水路だった。ジャック・スウィリングが1867年に灌漑会社をつくって、ソルト川から水を引く運河を掘ったんだ。

    翌年の3月には水が流れ、夏には作物が育ったらしい。砂漠に水の道を通して、畑を起こしたわけだね。

    運河って、乾いた大地にストローを何本も差して水を飲ませるみたいな仕組みじゃん。私は観葉植物1鉢に水をやる日さえ忘れるから、町ひとつ分の世話は開始3日で干上がると思う。

    しかもこの地域には、考古学者がホホカムと呼ぶ人たちが残した運河網の痕跡もある。フェニックス市によると、その長さはおよそ135マイルだったそうだよ。

    昔の水の道があった場所で、また水を引いて町が育つ。だから不死鳥の名前は、飾りじゃなくて土地の記憶にも合ってるんだな。

    ホホカムの社会が衰退した理由は、長い干ばつだけでは説明しきれず、まだ確定していないらしい。町はよみがえっても、昔の答えまでは掘り出せないんだね。

    不死鳥って聞くと派手に炎から出てきそうだけど、フェニックスの場合はまず水路から。再生にも、ちゃんと地道な下準備がいるんだな。

  63. 水路が守るアンデス芋

    ペルーのワルワル水路は、ジャガイモを霜から守る畑の装置だった。

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    フェニックスのホホカム運河は、ペルーより北の新大陸では最大で、いちばん複雑だったらしいんだ。そこで比較に出てきたペルー、実はさっきの世界最大のジャガイモ庫とも同じ、ジャガイモを育てる知恵の宝庫なんだよ。

    ペルーのチチカカ湖盆地には、ワルワルっていう高い畝のまわりを水路で囲む農法がある。標高約3800メートルの場所で、霜や気まぐれな雨、栄養の少ない土に向き合うために、昔の農民が使ってたんだって。

    水路って、水を運ぶだけの脇役だと思うじゃん。ところが昼間に水があたたまり、夜にその熱をゆっくり放して、畑の冷え方をやわらげるんだ。

    つまりジャガイモのそばに、水路の湯たんぽが並んでるようなものだね。水路も夜になると、凍らせないでくれよなって、畑の見張り番みたいな顔をしてそう。

    しかも水路には沈泥がたまって、畑に使えるし、害獣や害虫が来にくくなる壁にもなる。水の中では生き物も暮らせるから、ただの溝とはだいぶ待遇が違う。

    復元したワルワルでは、農薬も化学肥料も使わずに、ジャガイモが1ヘクタール当たり8トンから14トンとれた例があるんだ。寒さから守る水路が、そのまま畑の働き者でもあったわけ。

    畝と水路を作り直すには、みんなで手を動かす必要もある。紹介された復元事業も、約500世帯、10のコミュニティから始まったらしいよ。

    地下の巨大なジャガイモ庫も、水路つきの畑も、ペルーでは芋を長く生かすための工夫なんだね。ジャガイモ、貯蔵庫でも畑でも、ずいぶん大事にされてるな。

  64. チチカカ湖の巨大水ガエル

    チチカカ湖だけに暮らす巨大な完全水生カエルと、その危機の話。

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    ジャガイモを大事にするペルーでは、畑の水路にも生き物が暮らせるって話だったじゃん。チチカカ湖には、その水の中だけで一生を送る、とんでもなく大きいカエルがいるんだ。

    名前はチチカカミズガエル。ペルーとボリビアにまたがるチチカカ湖と、その周りの水域だけにいるんだって。

    完全に水中で暮らすカエルとしては、世界最大とされてる。水深100メートルで見つかった記録まであるから、浅瀬でぴょこぴょこ担当ではないんだよね。

    いちばん目を引くのは、大きくたるんだ皮膚なんだ。体に余ったカーテンをまとってるみたいだけど、その広い皮膚で水から酸素を取り込みやすくしてると考えられてる。

    カーテンだから朝になったら開くわけじゃないよ。そこは私も一瞬、湖畔の部屋かと思った。

    でも、このカエルの暮らしはかなり厳しい。水の汚れに加えて、外から入ったマスやシルバーサイドがオタマジャクシを食べ、病気や違法な採取も脅威になってる。

    薬や元気が出る飲み物になるって信じて採られることもあるらしいけど、そうした効き目には科学的な裏付けがあるわけじゃないんだって。

    国をまたいで暮らす生き物だから、2018年にはペルーとボリビアが、湖を回復させて守るための協定も結んだんだ。国際的な売買が原則できなくなった話もあるけど、それはまた別の機会にしよう。

    湖の底で、余った皮膚ごと呼吸してる巨大なカエルか。寝ぐせで悩む私より、ずっと水の中に向いてるな。

  65. ウユニ塩湖の鏡

    ウユニ塩湖は雨季に空を映し、衛星調整にも使われる巨大な塩原。

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    寝ぐせで悩む私のいたボリビア、その南西にあるアルティプラノ高原には、空が地面に降りてきたみたいな場所があるんだ。

    ウユニ塩湖。面積は約1万平方キロメートルで、世界最大の塩原なんだって。

    標高は約3650メートル。高いし広いしで、ここで迷子になったら、捜索隊も空と地面を見分けるところから始めそうだよね。いや、迷子にはならないでほしいけど。

    もともとは先史時代の大きな塩湖で、水が乾いて、塩が広く残った場所なんだ。

    雨季になると、その平らな塩の表面に薄く水がたまる。すると空をそのまま映して、巨大な鏡みたいになるんだよ。

    鏡って、洗面所だと寝ぐせの確認にしか使ってない私には、ちょっと用途の格が違いすぎるな。

    地下には塩水があって、そこには充電式電池に使われるリチウムも含まれてる。

    ただ、周りは乾燥した地域だから、採るときには大事な水資源へどう影響するかも考えなきゃいけない。電池の材料を取り出す話が、水の使い方の話につながるわけだ。

    さらに乾季の白くて平らな地面は、反射の具合が安定してるから、衛星センサーの調整にも使われてるんだって。

    空を映す鏡が、今度は空から地上を見る目まで整えてる。地面なのに、ずいぶん仕事熱心だな。

  66. 石から名づいたリチウム

    リチウムは石を意味する語に由来し、鉱物から発見された軽い金属だ。

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    さっき地下の塩水にいたリチウム、その名前は石から来てるんだ。地面なのに空を映してた場所から、今度は石の中へ潜る感じだね。

    1817年、スウェーデンの化学者ヨハン・アウグスト・アルフェドソンが、ペタライトっていう鉱物を調べて、まだ知られていなかった金属の気配を見つけたんだ。

    それでリチウムって名前は、ギリシャ語で石を意味するリトスが元になってる。

    身近な仲間のアルカリ金属には植物由来の物質から見つかったものがあったのに、リチウムは鉱物から見つかったから、石組の名前をもらったわけ。

    発見された石のペタライトは、たぶん急に名札を付けられて、鉱物界の新人発掘オーディションに合格した気分だっただろうね。

    ただしアルフェドソンは、リチウムそのものの金属を取り出すところまでは行けなかった。存在を見抜くのと、手元に取り出すのは別の仕事なんだよね。

    1855年になって、ロバート・ブンゼンとオーガスタス・マティーセンが、溶かした塩化リチウムに電気を流して、まとまった量の金属リチウムを得たんだ。

    電気で成分を引き離すのは、くっついたシールを温めながらそっとはがすみたいなものだね。金属をつかまえるまで、発見からずいぶん待ったんだ。

    しかもリチウムは、全部の金属の中でいちばん密度が低い。20度では、同じ大きさなら1立方センチメートルで約0.534グラムなんだって。

    石から見つかって、金属の中ではいちばん軽い。名前はずっしり、中身はふわりで、ちょっと名刺と本人の印象が違うやつだな。

  67. 月の名を持つセレン

    ベルセリウスは月の名を持つセレンを発見し、その栄養的な役割も後に示された。

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    石から見つかったリチウムの話で、アルフェドソンが使っていたのは、ストックホルムにあったベルセリウスの私設研究室だったんだ。

    そのベルセリウスが、1817年に硫酸を作る途中で出た赤褐色の沈殿を調べて、新しい元素を見つけてる。

    最初はテルルだと思ったらしいんだけど、調べるうちに別の元素だと分かったんだって。セレンだよ。

    赤褐色の沈殿って聞くと、研究室でお茶をこぼしたのかと思うじゃん。いや、元素を見つける大事な手がかりだった。

    セレンはテルルと性質が似ていて、テルルの名前は地球にちなむ。そこでベルセリウスは、地球と月を並べるみたいに、ギリシャ語で月を意味するセレネからセレンと名づけたんだ。

    地球に似た性質の元素へ、月の名前を渡す。その発想、理科室に小さな天体セットを置いたみたいでいいよね。

    前のリチウムは、名前はずっしりなのに中身はふわりだったけど、セレンは月の名前なのに地球の元素に似てる。名刺と本人の印象がまた少し違うやつだな。

    ちなみにセレンは長いあいだ毒性が注目されていたのに、1957年にはラットの肝壊死を防ぐ必須栄養素としての役割も示されたんだ。

    毒か栄養か、ずいぶん極端な顔ぶれだよね。元素の自己紹介、情報量が多すぎる。

  68. テルルの薄膜太陽電池

    テルル化カドミウムは薄膜太陽電池で光を吸収する半導体だ。

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    セレンの自己紹介が情報量たっぷりだった流れで、近くの元素のテルルにも寄り道したくなったんだ。テルルはカドミウムと結び付くと、太陽電池で働く半導体になる。

    できたテルル化カドミウムは、光を受け止める層の担当。名前は重そうなのに、光を受ける仕事をしてるんだよね。

    この太陽電池は、ガラスの上に材料を薄く積む薄膜型なんだ。テルル化カドミウムは光をよく吸収するから、シリコンより薄い吸収層でも同じ光を受け止められる。

    薄いのに仕事はする。私の薄い財布にも、この吸収力だけは見習ってほしいな。入ってきたお金を、光みたいに逃がさないでほしい。

    普及の度合いもなかなかで、結晶シリコンに次いで使われている太陽電池材料なんだって。2022年には、アメリカの太陽光発電市場の21パーセント、世界では4パーセントを占めた。

    ただ、テルルは主に銅鉱石を処理する途中で得られる副産物なんだ。太陽電池をたくさん作ろうとすると、テルルをどれだけ確保できるかが課題の1つになる。

    ちなみにモジュールでは、1枚のガラスに材料を重ねてから、レーザーで細いセルの列を刻んで配線する。小さなシリコンのセルをたくさん並べるパネルとは、作り方が少し違うんだ。

    ガラスの上をレーザーが細く走って、光を電気にする道筋を作る。太陽の光って、案外きっちり区画整理されて働いてるんだね。

  69. 巨大水ガエルとCITES

    巨大水ガエルは国境をまたぐ取引も背景に、厳しい国際保護の対象になった。

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    区画整理って言葉から、国境をまたぐ話を思い出したんだ。前にチチカカ湖の巨大水ガエルの売買は後で話すって、私が勝手に宿題にしてたやつ。

    このカエルは、ボリビアとペルーが2016年にワシントン条約の附属書1へ載せるよう提案したんだ。

    ワシントン条約っていうのは、絶滅のおそれがある野生の動物や植物を、国境越しに取引するときのルールを決める条約なんだよね。1973年に採択されたんだって。

    全部の取引をまとめて止めるわけじゃなくて、種ごとに許可の厳しさを分けてる。郵便物の仕分けみたいだけど、中身は生きものの未来だから、だいぶ真顔の仕分けだ。

    その中でも附属書1はかなり厳しくて、商売を主な目的にした国際取引は認められない。例外的に商売じゃない取引をするにも、輸入する国の許可と、輸出する国の許可か再輸出の証明書が必要になる。

    巨大水ガエルは主に地域の中で食べられていたんだけど、ボリビアで採られた個体が、ペルーの首都リマの市場向けに取引されたという報告があった。国境を越えた時点で、地元の食べものの話が国際的な保護の話にもなるんだ。

    当時の市場の人には、カエルに国籍を聞く係がいたのかだけ、どうでもいいけど聞いてみたい。いや、カエル側も急に身分証を求められて困るか。

    諸説あるんだけど、ペルーとボリビアの間以外で取引された証拠は、提案時点ではかなり限られていたんだって。2009年と2016年には、ヨーロッパ向けとされる少数の生きた個体がエクアドルで押収されたという報告もあるけど、詳しいことはあまり分かっていない。

    湖の底で暮らすカエルの話なのに、国境と許可証まで出てくる。水面の下って、思ったより世界とつながってるんだね。

  70. リマ豆はリマから

    リマ豆はペルーの首都リマに名を借り、古くから栽培されてきた豆の話。

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    水面の下まで世界とつながってるって話から、今度はリマって地名そのものを拾ってみよう。リマ豆って、あのペルーの首都リマから名前が来てるんだ。

    リマ豆はマメ科の植物で、学名はファセオルス ルナトゥス。大きな種をつける型は、主に南米、とくにペルーで昔から育てられてきたんだって。

    キュー王立植物園によると、その栽培は紀元前6000年までさかのぼるらしい。豆なのに、歴史の棚のかなり奥から転がってくる。

    つまりリマで採れた豆だからリマ豆ってことか。いや、名前の由来がリマなだけで、都市の地面から豆が生えてきたわけじゃない。

    ペルー北海岸で栄えたモチェ文化では、西暦100年ごろから800年ごろにかけて、リマ豆が土器などの図像にも表されていたと紹介されてる。食べものとしてだけじゃなく、何かを表す役目もあったみたいなんだ。

    豆を土器に描くって、毎日の食卓にあるものが文化の印になるってことだよね。今なら冷蔵庫の中身を模様にする感じかな。

    それなら、リマ豆の絵を台所に貼って、買い忘れ防止の献立会議に使えそうじゃん。6000年級の豆に、今日の夕飯を仕切ってもらおう。

    ちなみに英語ではリマ豆をライマ ビーンって読むのに、都市のリマはリーマ。名前を借りた豆のほうが、発音だけ少し自由なんだね。

  71. 種を眠らせる銀行

    ミレニアム・シードバンクは野生植物の種を未来へ残す施設。

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    リマ豆の名前を借りた都市のリマから、今度はイギリスのキュー王立植物園まで飛んでみよう。

    その植物園が、ウェイクハーストという場所で種を預かる大きな施設を持ってるんだ。

    名前はミレニアム・シードバンク。2000年11月に開設された、野生植物の種の銀行なんだって。

    地下の低温保管庫には、100を超える国や地域と協力して集めた、約25億粒、4万種を超える種が眠ってる。

    数が急に宇宙規模じゃん。私なんて乾燥パスタを買い置きしただけで、食料管理の司令塔みたいな顔をしてるのに。

    ここでは種を乾燥させて選別し、長く残すためにマイナス20度で保管する。冷凍庫の奥で霜に埋もれるアイスとは、使命の重さが違うね。

    種のほうからすると、今は眠ってていいけど、いつか生態系を戻す仕事で起こされるかもしれない、ってことだよね。

    研究や絶滅の危機にある植物の保全、それに生態系の復元に使える保険として、未来に渡してるんだ。

    ただし、どんな種でも同じようには眠れない。乾燥や冷凍に弱い難保存性種子には、別の保存方法が必要になる。

    種にも、冷凍睡眠が得意な子と、寒いのは勘弁してって子がいるわけだ。地球の非常用引き出し、思ったより繊細なんだね。

  72. キューの逆さ船温室

    キューのパームハウスは造船技術を生かした逆さ船形の温室。

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    種が寒いのは勘弁してって言うなら、パームハウスみたいな熱帯植物の家は、かなり頼もしい避難先だよね。

    キュー王立植物園のパームハウスは、外から見ると逆さにした船の船体みたいな温室なんだ。

    1844年から1848年にかけて、建築家のデシマス・バートンと鉄工家のリチャード・ターナーが建てて、1848年に開館したんだって。

    鉄とガラスを大規模に使った、ぐっと弧を描く造りでね。当時の造船技術と、ガラスを作る工夫が温室に持ち込まれてる。

    船をひっくり返して中に植物を入れる発想、落ち着いて考えるとだいぶ大胆だよね。船酔いはしないけど。

    中央の空間は高さ約20メートルあって、今も1000種以上の熱帯植物を育てる、生きた研究施設として使われてる。

    前の種たちは冷凍睡眠が得意な子もいたけど、ここでは南国組がちゃんと起きたまま暮らしてるわけだ。

    しかも建設中の1847年には、写真家アントワーヌ・クローデが内部をダゲレオタイプで撮ってる。写真術が公開されて間もない時期の、かなり早い建設記録なんだ。

    家の物干しも船の形にすれば乾きそう、って本気で考えたけど、洗濯物を干すたびに近所から出航を見送られそうだな。

  73. 溶けた錫で作る板ガラス

    溶けた錫の上で平らな窓ガラスを作るフロート法の話。

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    船みたいな温室を覆ってたガラスで思い出したんだけど、今の窓ガラスって、溶けた錫の上を流れて作られるんだ。

    ガラスを約1000度から1100度で、溶けた錫の浴槽にずっと流し込む。

    錫の表面がものすごく平らだから、ガラスはその上で両面がなめらかで、平行な板に整うわけ。

    錫からしたら、熱いガラスが毎日すべってくるけど、私は完璧な床担当ですから、って顔してそう。

    引き出す速さを変えると、板の厚みも調整できるんだって。

    このフロート法は、イギリスの技術者アラステア・ピルキントンたちが1952年に開発へ着手して、1959年1月20日に発表した。高品質な板ガラスの世界標準になったんだ。

    皿洗い中に、水に浮いた油を見て思いついたっていう話も諸説あるんだけど、ピルキントン本人はその劇的なひらめき話を否定してる。

    発明って、皿洗いから生まれるなら、私の台所からはまず洗い物を消す技術が生まれてほしい。

    最初は6ミリくらいだった厚さも、今は約0.4ミリから25ミリまで作れる。窓って、静かな顔でずいぶん熱い経歴を持ってるよね。

  74. 信号灯を赤くするカドミウム

    カドミウムは太陽電池だけでなく、信号灯の赤や黄にも使われてきた。

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    フロートガラスの話をしてたら、テルルの薄膜太陽電池で言い忘れた脇役を思い出した。カドミウムのことなんだ。

    テルル化カドミウムの薄膜太陽電池は、透明に電気を通す膜をのせたガラスに、テルル化カドミウムの蒸気を積み重ねて作る。最後にレーザーで、電池の帯と配線を刻むんだ。

    大きなガラスの上に、光を電気にする細い区画を作る感じは、焼き菓子に包丁で切れ目を入れて、ひと口ずつ分けるみたいだよね。食べられないのが惜しい。

    この材料に入るカドミウムは、亜鉛や銅を採掘するときの副産物から得られる。主役を掘っていたら、別の仕事人が現れるわけだ。

    そしてカドミウムは、鮮やかな黄や赤の顔料にもなる。アメリカ地質調査所によると、黄色や赤色の交通信号や警告灯のガラスレンズで、透明感と明るさを出す用途にも使われてきたんだ。

    太陽の光を受ける板に入っていた材料が、今度は止まれを光で伝えていたわけ。光の担当部署を何度も異動してる。

    ただ、高価だし、金属カドミウムの毒性も心配されるから、カドミウム顔料は代わりにくい用途へ絞られていった。1990年代には、西ヨーロッパの環境規制を背景に、代わりの顔料づくりも進んだんだ。

    ガラスって透明なふたじゃなくて、光を通しながら材料を支える舞台なんだよね。皿洗いを消す技術はまだだけど、赤信号の舞台装置はもう働いてる。

  75. モーガンの三位置信号

    モーガンの三位置式信号は、全方向を止める安全な間を作った。

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    赤信号のガラスレンズから、今度は信号そのものの仕組みへ寄り道しよう。止まれと進めの間に、いったん全員落ち着こうって発想があるんだ。

    1923年、アメリカの発明家ギャレット・A・モーガンは、手で動かす三位置式の交通信号で特許を取った。停止と進行だけじゃなく、全方向を止める第3の位置があったんだ。

    それまでの2択の信号は、止まれから進めへ切り替わる間がない。混んだ交差点だと、前の車がまだ交差点にいるのに次の車が入ってきて、ぶつかる原因になりかねなかった。

    そこで第3の位置で、交差点に残った車は抜けてもらって、歩行者にも渡る余地を作る。信号が、ちょっと待って、いま中を片づけてるからって交通整理してる感じだね。

    ただし、モーガンが三位置式信号を最初に発明した、と断定するのは正確じゃない。諸説あるんだけど、似た信号を試作や販売した人もいて、モーガンはこの種の装置で最初にアメリカ特許を出願して取得した人物だと説明されてるんだ。

    今の赤、黄、緑の電灯式信号をそのまま作ったわけじゃないけど、安全のための間を置く考え方が大事だったわけ。急に話しかけず、ひと呼吸おくのと同じだね。

    ちなみにモーガンは、煙から身を守る安全フードも特許にしてる。それはまた別の機会に、煙の中でどう働くのか話したいな。

    交差点の真ん中にも、話の途中にも、ちょっとした間って必要なんだなあ。私の間は、たまに長すぎるけど。

  76. 人工ダイヤの誕生

    GE研究所で炭素から人工ダイヤモンドが再現可能になった話。

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    交差点で大事だった間って話から、ゼネラル・エレクトリックの研究所を思い出したんだ。あ այնտեղでは、炭素にものすごい圧力と熱をかけて、人工ダイヤモンドを作ったんだよ。

    1954年12月16日、研究者のエイチ・トレーシー・ホールが、炭素からダイヤモンドを再現できる方法を最初に成功させた人物だとされてる。翌年2月には、ゼネラル・エレクトリックが成果を発表したんだ。

    炭素を高温、高圧の装置でぎゅっと押し込むと、原子の並び方がダイヤモンドの形へ変わる。炭素に、もっときっちり整列してって圧をかける感じだね。

    ダイヤモンドと黒鉛は、どっちも炭素だけでできてるのに、並び方が違うだけで片方は硬い宝石、もう片方は鉛筆の芯になるんだ。座席替えだけで、王様と書記係くらい別の役になるの、原子は配役に厳しい。

    人工ダイヤモンドは、最初から指輪で輝くために作られたわけじゃない。金属やガラス、それに歯まで切ったり磨いたりする、工業用の頼れる道具だったんだ。

    家の包丁も人工ダイヤで研げばいいんじゃないかって一瞬思ったけど、たぶん包丁より先に、私の指への信頼が削られるね。

    宝石になる炭素も、鉛筆の芯になる炭素も、出発点は同じなんだよね。並び方ひとつで人生が変わるなら、私の机の上も並べ替えたら光るかな。

  77. 粘土が変えた鉛筆

    黒鉛不足から生まれた、粘土で硬さを調整するコンテの鉛筆芯の話。

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    鉛筆の芯って言葉で、机の上を並べ替えたら光るかなって話から、ちょうどいい寄り道を思い出した。

    その芯、昔は黒鉛が足りなくなったせいで、粘土と組むことになったんだ。

    1794年、イギリス産の黒鉛が不足していたフランスで、ニコラ=ジャック・コンテが黒鉛の粉と粘土を混ぜて焼く芯を考え出した。

    粉だけだとまとまりにくい黒鉛に、粘土がつなぎ役として入る感じ。パン生地に粉をまとめる水みたいな役だね。

    しかも黒鉛と粘土の割合を変えると、芯の硬さと黒さを調整できるんだ。黒鉛が多ければ黒く書けて、粘土の具合で硬さも変えられる。

    今の硬さが違う鉛筆の土台は、ここにあるわけ。粘土、急に鉛筆界の調整室長だな。

    コンテは1795年1月3日に、この人工鉛筆の特許を出願したんだって。芯は木の半円筒を2本合わせて、間に挟む形にした。

    あの木の鉛筆、芯を木でサンドして守ってるんだよね。私の指への信頼みたいに削れないようにしてるわけじゃないけど。

    それから、鉛筆の芯って呼んでるのに、主成分は鉛じゃなくて黒鉛なんだ。英語で鉛筆の芯を鉛って呼ぶのも、ちょっと紛らわしい。

    黒鉛に粘土を混ぜるだけで、書き心地まで調節できる。机の上も粘土で整えたら片づくかな。いや、増えるだけか。

  78. ナポレオンと甜菜糖

    大陸封鎖で不足した砂糖を補うため、ナポレオンはテンサイ製糖を後押しした。

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    黒鉛に粘土を混ぜて調節するって話から、ナポレオンが砂糖の材料まで増やそうとした話を思い出した。

    1806年11月21日、ナポレオンはベルリン勅令で、イギリスとの通商を禁じる大陸封鎖を始めたんだ。

    ところがイギリスとの取引が止まると、植民地から来ていたサトウキビ糖も足りなくなる。砂糖が急に、私は海を越えないと出勤できませんって顔をし始めたわけ。

    そこでフランスは、テンサイから砂糖を作る研究と生産を強く後押ししたんだって。テンサイは畑で育つ植物だから、海の向こうに頼らず甘さを用意できるかもしれないじゃん。

    1812年1月15日の勅令では、テンサイを10万ヘクタール育てて、化学学校の学生100人を助成し、工場500件も認める計画を立てた。

    砂糖不足への対策が、畑と学校と工場をまとめて動かす国家プロジェクトになってるの、台所の砂糖つぼが空になったときの対処としてはだいぶ大きい。

    ただ、畑は命令だけで広がるわけじゃなくて、1812年末の作付面積は6,785ヘクタールにとどまった。目標の10万ヘクタールには、かなり届かなかったんだ。

    それでもナポレオンは1812年1月、パリ近郊パッシーにあったベンジャマン・ドレセールの製糖工場を訪れて、功績を認めてレジオン・ドヌール勲章を授けてる。

    砂糖って、お菓子を甘くするだけじゃなくて、国の作戦まで動かすんだね。砂糖つぼを見る目が、ちょっとだけ重くなるな。

  79. モーガンの安全フード

    モーガンの安全フードは、低い位置の空気を吸って煙から救助者を守った。

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    砂糖つぼが重く見えるなんて話をしてたら、頭からかぶるフードのことも思い出した。前に保留してた、ギャレット・モーガンの安全フードね。

    モーガンは1912年に、煙の中で呼吸するための呼吸装置を出願して、1914年10月13日にアメリカの特許を取ったんだ。

    キャンバス製のフードを頭からかぶって、そこにつないだ管で床に近い、比較的きれいな空気を吸う仕組みだった。

    煙は上へたまりやすいから、空気を取りにいく場所を低くしたわけ。ぬらしたスポンジも使って、煙を少しでもやわらげたんだって。

    空気にも、床際に避難場所があるんだね。

    1916年7月、クリーブランドのエリー湖取水トンネルでガス爆発が起きたとき、モーガンは弟のフランクたちとその安全フードを着けて救助に入った。

    生存者を助け出して、亡くなった人たちも収容したんだ。試作品みたいな発明が、いきなり現場で人を助ける道具になったわけだね。

    トンネルの中で、フードの管がどこかに引っかかったらどうするつもりだったのか、どうでもいいのに聞いてみたくなる。助けに行く側の装備って、勇気だけじゃ済まないもんね。

    この装置は、今のガスマスクの直接の祖先だと言われることもあるんだけど、諸説あるんだ。酸素を持ち歩く本格的な防毒マスクではなくて、煙や危ない空気から逃げたり救助したりするためのフードだった。

    しかも、この救助でのモーガンの功績は、当時すぐ十分に公的に認められたわけじゃなかった。カーネギー英雄基金の表彰を求めて、長く資料を集めることになったんだって。

    人を助ける装置なのに、評価まで助けに来るのは遅かったんだな。

  80. オハイオ・エリー運河

    オハイオ・エリー運河は閘門で高低差を越え、移動時間を大幅に縮めた。

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    評価まで助けに来るのが遅かった、そのクリーブランドで思い出したんだけど、エリー湖の岸からオハイオ川側まで、水路でつないだ運河があったんだ。

    オハイオ・エリー運河っていって、1825年に工事が始まった。クリーブランドとポーツマスを結ぶ、全長約496キロの大仕事だよ。

    最初のクリーブランドからアクロンまでの区間は、1825年から1827年に手で掘られたんだって。約61キロを手掘りって、土のほうもそろそろ休憩を申請したくなるよね。

    でも運河は平らな場所だけを通れるわけじゃない。アクロンとクリーブランドの間には約122メートルの高低差があって、それを44基の閘門で越えたんだ。

    閘門は、船を両端に門のある区画へ入れて、水をためたり抜いたりする仕組み。船を水の階段で上げ下げする感じだね。

    船からしたら、今日は44段も昇降機に乗るのかって気分だったかも。しかも全部、水が担当。

    運河全体は1832年までに完成して、クリーブランドからシンシナティまで何週間もかかっていた移動が、約80時間になったんだ。道が近くなったというより、時間が急に走り出したみたいじゃん。

    今なら家の風呂に小さい閘門を付けて、湯船へ入るたびに水位で自分を運搬する方式もあるけど、たぶん毎晩が工事現場になる。

    ただ、1913年の大洪水で運河は大きな被害を受けて、やがて放棄された。水を操っていた道が、水に止められたんだな。

  81. ゴムを強くした加硫

    加硫は硫黄と熱で天然ゴムを丈夫にし、タイヤを支える材料にした。

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    水に止められた運河の話から、アクロンの名前が頭に残ってさ。そこでは1898年に、グッドイヤー・タイヤ&ラバー社が生まれたんだ。

    グッドイヤーは人の名前で、チャールズ・グッドイヤー。ゴムを工業で使いやすくした、加硫って方法を実用化した人なんだよね。

    天然ゴムって、そのままだと暑い日にへにゃっと変形しやすくて、寒い日にはパキッともろくなりやすい。夏のもちと冬のせんべいを、同じ材料に押しつけられた感じ。

    そこで1839年、ゴムに硫黄を加えて熱する方法を見つけた。1844年にはアメリカで特許も取ってる。

    硫黄はゴムの分子どうしをつないで、ばらばらに動きすぎないようにする役目なんだ。輪ゴムの中に見えない留め具をたくさん付けるようなもので、丈夫さも弾み方も薬への強さも上がる。

    これでゴムは、タイヤみたいな工業材料として広く使えるようになった。道路を走る前に、まず熱で鍛えられてたわけだ。

    発見は、ゴムと硫黄の混ざったものを熱いストーブにうっかり落としたからだって言われてるんだって。あ、ストーブが研究者だったわけじゃないからね。

    実際には、グッドイヤーが実験を重ねた末の発見で、偶然だけの話にすると少し雑になる。失敗も焦げ跡も、ちゃんと積み上げてたんだろうな。

    ちなみに加硫という名前は、火と鍛冶のローマ神ウルカヌスから来てる。ゴムを火で鍛える作業に、ぴったりの名前じゃん。

    タイヤが転がるたび、神様の名前まで一緒に転がってると思うと、信号待ちがほんの少しだけ神話っぽくなる。

  82. 安全マッチの仕組み

    安全マッチは赤リンを箱の側薬へ分け、着火場所を限った仕組み。

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    タイヤに転がっていた神様の名前から、火を起こす小さな棒の話へ飛ぶんだけど、硫黄はマッチにも登場するんだ。

    1827年、イギリスのストックトン=オン=ティーズで、薬剤師のジョン・ウォーカーが、こすって火をつけるフリクション・ライトを売り始めた。

    摩擦で火が出るマッチだね。小さな棒なのに、火種を持ち歩くって発想がもう結構な発明じゃん。

    ただ、初期のマッチには白リンが使われていて、作る人たちの健康に深刻な被害が出たんだ。

    便利な火が、工場では人を傷つけてしまったわけでさ。私はマッチをこするだけでちょっと緊張するのに、白リンを扱う仕事なんて、心まで引火しそうで無理だよ。

    そこで1850年代のスウェーデンで、ヨハン・エドヴァルド・ルンドストレムらが安全マッチを作った。

    ポイントは、火をつける材料の赤リンをマッチの頭ではなく、箱の横のざらざらした側薬に置いたこと。

    こすると赤リンの一部が白リンに変わって着火するから、火をつける場所を箱の側薬に限れるんだ。

    鍵と鍵穴を別々に持たせるみたいな仕組みで、棒だけあっても勝手に火を出しにくい。ここでようやく、安全マッチらしくなる。

    それでも白リンを扱う工場労働者の被害は重くて、1888年のロンドンで起きたマッチ女工ストの背景の一つにもなった。

    火を借りるときは軽く言うけど、その小さな火の安全には、ずいぶん長い手間と痛みが混ざってるんだよね。

    マッチ箱の横は、ただのざらざらじゃない。今日から妙に立派な壁に見えそうだな。

  83. ストックトン鉄道の初日

    ストックトン鉄道の開業初日と、未完成だった旅客輸送の仕組み。

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    マッチ箱の横の立派な壁から、ストックトンって町の名前が頭に残ったんだ。そこは安全マッチを売り出したジョン・ウォーカーの町でもあるんだよね。

    そのストックトンは、1825年9月27日に開業したストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の終点でもあった。ウィトン・パークの炭鉱地帯からティーズ川まで、約43キロを結んでたんだ。

    主な仕事は石炭を運ぶこと。石炭専用の黒い急行だね。いや、約600人も乗せて開業したから、人もちゃんと乗ってるんだけどさ。

    開業日の列車を引いたのは、ロコモーション号っていう蒸気機関車で、路線はジョージ・スティーブンソンが蒸気機関車用に設計したんだって。

    約600人を乗せるって聞くと、当日の人たちに、みんなはどこでお弁当を食べたのってどうでもいいことを聞きたくなるな。

    ただ、ここで近代的な旅客鉄道が完成したわけじゃない。開業直後の定期的な旅客輸送は、鉄道会社そのものより、線路使用料を払った事業者の馬車が担ってたんだ。

    だから世界初の蒸気旅客鉄道って呼ばれることもあるけど、鉄道や旅客営業をどこから数えるかで諸説あるんだって。新しい仕組みって、完成前から走り出すことがあるんだね。

    駅の仕組みもまだ整ってなくて、1826年にはストックトンとダーリントンの貨物拠点を見張る宿屋が置かれた。見張り番つきの宿屋って、鉄道の初期設定がちょっと冒険小説みたいだな。

  84. カーネギー英雄基金

    モーガン兄弟とカーネギー英雄基金のメダル選考をたどる話。

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    見張り番つきの宿屋の話をしてたら、モーガンの安全フードで言い忘れたことが急に戻ってきた。あの救助のあとには、英雄をたたえる基金の話もつながってるんだ。

    1916年、エリー湖の下にあるクリーブランドの取水トンネルで救助があって、ガレットと弟のフランク・モーガンは安全フードを使った。

    でも2人はカーネギー英雄基金のメダルを受けなかったんだ。候補になった22人のうち、1917年にカーネギー・メダルを受けたのは4人だった。

    基金側は、安全フードが救助者の危険を小さくしたことを理由として挙げている。危険な現場で命を守る道具が役立ったのに、それで英雄の基準から遠ざかるようにも見えるんだよね。

    モーガンが受けなかった主な理由は人種差別だった、という見方も諸説あるんだけど、基金は当時の記録に理由の明記はないとしてる。安全装備で危険度が基準に届かなかった可能性もあるんだって。

    この基金は1904年、ペンシルベニア州ハーウィック炭鉱の救助で亡くなった人たちをきっかけに、アンドリュー・カーネギーが民間人の勇気ある行為をたたえるためにつくったんだ。

    候補22人って聞くと、メダル選考会が炭鉱の救助隊くらい大所帯に見えてくるな。いや、会議室を掘るわけじゃないけど。

    ちなみにメダルの月桂樹、ツタ、オーク、アザミは、順に栄光、友情、強さ、忍耐を表す。家の観葉植物にも意味を書いた札をつけたら、急に基金の入口みたいになるかも。

    勇気を測る物差しって、道具ひとつで目盛りが揺れるんだな。札つきの観葉植物は、まず水やりの忍耐からだね。

  85. エリー湖の局地雪

    エリー湖では暖かな水面が雪雲を育て、局地的な大雪を降らせる。

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    水やりの忍耐で思い出したんだけど、水つながりでエリー湖の雪が妙に面白いんだ。湖の近くでは、ほんの数キロ違うだけで大雪と晴天が分かれることがある。

    これ、湖水効果雪っていう現象なんだ。冷たい空気が、まだ凍っていない比較的暖かい五大湖の水面を渡るあいだに、熱と水蒸気をもらう。

    すると空気が上にのぼって雲になり、雪を降らせるんだって。乾いたスポンジが湯気を吸って、上でふわっと膨らむ感じに近いかな。

    雪雲は細い帯みたいにできやすくて、風向きで落ちる場所がずれる。強い帯の下だと、1時間に約5から8センチ以上も積もることがあるんだ。

    エリー湖の水面としては、冷たい空気に熱も水蒸気も渡してるのに、最後は雪の苦情まで受けそうだよね。私は雲を育てただけです、って言いたいかも。

    バッファロー周辺では、エリー湖が凍るまでの晩秋から冬に、この雪が目立つんだ。湖が凍ると、水面からもらえる熱と水蒸気が減るから、湖水効果雪も弱まりやすい。

    2006年10月12日から13日には、暖かいエリー湖の上でできた狭い雪帯で、局地的に約61センチを超える湿った雪が降った。湿った雪がなぜ厄介かは、いったん雪だるま係に預けておこう。

    観葉植物に札をつけるなら、エリー湖には雲の育成中って札が必要だな。水やりの規模が、もう庭どころじゃない。

  86. バッファロー・ニッケル

    バッファロー・ニッケルは人物とバイソンを描いた米国の5セント硬貨だった。

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    エリー湖の雲の育成中って札から、バッファローって地名だけが妙に頭に残ってさ。バッファローと聞くと、アメリカの5セント硬貨にいたバッファロー・ニッケルを思い出すんだ。

    1913年から1938年まで発行された硬貨で、彫刻家のジェームズ・アール・フレイザーがデザインしたんだって。

    表には先住民男性の横顔、裏にはアメリカバイソンがいる。名前はバッファロー・ニッケルだけど、ここでいうバッファローは実際にはバイソンの通称なんだよね。

    硬貨の裏表で、人物と大きな動物が向き合うわけじゃないのに、なんだか大陸まるごと小銭入れに入れたみたいじゃん。

    表の人物は誰なのか、諸説あるんだけど、フレイザー自身はアイアン・テイル、ビッグ・ツリー、トゥー・ムーンズという3人をモデルにしたと述べてる。けれど、特定の1人ではなく、何人かの特徴を合わせた顔だとみられてるんだ。

    写真を重ねて1枚にするみたいな肖像だね。硬貨なのに、顔の中では静かな合同会議が開かれてる。

    この意匠はそこで終わらなくて、2001年の記念銀貨や、2006年に始まったアメリカン・バッファロー金貨の基にもなった。良い図柄は、引き出しの奥から何度でも出てくるんだな。

    今の暮らしでも、5セント硬貨を1枚だけ机に置いて、集中できない時の見張り役にしたらどうかな。バイソンに見られてると思えば、つい作業するかもしれない。

    1938年以降の5セント硬貨は、トマス・ジェファーソンと、その邸宅モンティチェロの図柄になったんだ。バイソンは交代したけど、机の見張り役なら今も現役にしてあげたいね。

  87. ハドソン川の鉄鎖

    ウエストポイントは鉄鎖と要塞網でハドソン川を守った。

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    5セント硬貨のバイソンから、今度はウエストポイントの要塞線を思い出したんだ。机の見張り役どころか、川そのものに大きな見張り線を張った場所なんだよね。

    アメリカ独立戦争の1778年4月、アメリカ軍はハドソン川のウエストポイントからコンスティテューション島まで、鉄の鎖と丸太の障害物を渡したんだ。

    狙いは、ハドソン川のハイランズを通るイギリス軍の艦船を止めること。川をただの水路じゃなくて、通行止めつきの玄関に変えたわけだ。

    しかもウエストポイントには、対岸や周りの高地まで含めた要塞と砲台の網があった。鎖だけに任せず、周囲からもしっかり見張る仕組みだったんだな。

    台所の流しに栓をして、棚の上から懐中電灯で見張るみたいな防衛だけど、規模は川と軍艦だから急に話がでかい。食器は1枚も洗えないけどね。

    この鎖がある要塞線は、イギリス軍に挑まれないまま終戦まで維持されたんだって。戦わずに通さない、というのもなかなか手強い防御だよね。

    ただ1780年には、司令官だったベネディクト・アーノルドが、この要塞をイギリス軍へ渡そうとした計画が発覚してる。頑丈な鎖があっても、内側の人の考えまでは縛れないんだな。

    ちなみにウエストポイントの陸軍士官学校は、1802年7月4日に開校して、最初の生徒は10人だったそうだ。大きな防衛の場所も、最初は10人から授業開始かと思うと、出席確認の声まで川に響きそうだね。

  88. 雪玉になる湿った雪

    湿った雪は水分量で重さや雪玉への向き不向きが変わる。

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    ハドソン川に張った鎖の話をしていたら、水のことから、置きっぱなしにしてた湿った雪の話を思い出した。雪って同じ高さに積もっていても、中にどれだけ水が入ってるかは別なんだ。

    雪は氷の粒の間に空気をたくさん抱えてるから、積雪の深さだけでは水の量が分からない。そこで全部溶かして出てくる水の量を、雪水当量っていうんだよ。

    雪の背の高さじゃなくて、溶かしたあとの中身で量を量るわけ。見た目だけで判断すると、ふくらんだダウンジャケットと同じで、中身の密度にだまされるんだよね。

    新しく降る雪は、アメリカでは水分が約4から10パーセントくらいのことが多いんだって。水分が多いほど、同じ水の量でも低く積もって、ずっしり重くなりやすい。

    その中でも、体積の3から8パーセントほど液体の水を含むのが湿った雪。よくくっつくし、ほどよく押せば雪玉に向いてる。

    雪玉の材料としては、雪が自分から、今日は手と手をつなげる日ですって腕まくりしてる状態かも。なかなか協調性が高い。

    でも8パーセントを超えると、水を絞り出せるくらいになって、その先はシャーベットみたいになる。雪玉づくりにも、まとまりすぎると水っぽいという加減があるんだな。

    私は雨の日の靴下でさえうまく扱えないのに、手のひらで水分3から8パーセントの雪を見極めて、きれいな球を作る人がいるんだから手際が違うよ。

    気象観測では、雪も溶かして降水量として測ってる。積もった深さとは別に、液体に換算した量を記録してるんだ。

    雪景色を見て、今日は何センチ積もったんだって話す裏側で、水はちゃんと正体を明かして数えられてる。雪だるまだけは、最後まで量られたくなさそうだけどね。

  89. 朝鮮王朝の測雨器

    朝鮮王朝の測雨器と、雨量を比べる観測制度の話。

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    雪も溶かして降水量として測るって話で思い出したんだけど、雨そのものを受け止めて測る道具、測雨器っていうのがあるんだ。

    朝鮮王朝では1441年に設置が提案されて、翌1442年には首都だけじゃなく、各地で観測する仕組みまで整えられたんだって。

    測雨器は、円筒形の器に雨を集めて、その深さを測る雨量計なんだ。

    同じ規格の器を各地に置けば、こっちは雨がどれだけ降ったかを、器の深さどうしで比べられるじゃん。料理で同じ計量カップを使わないと、みそ汁が急に海になるのと同じだね。

    しかも測雨器には台座があって、観測する時刻や場所をそろえる役目もあったんだ。

    器だけ配って終わりじゃなくて、いつ、どこで測るかまでそろえて、初めて比べられる気象の記録になるわけ。

    今の暮らしでも、ベランダに測雨器を置いて、洗濯を外に出すかどうかを家族会議じゃなく器に決めてもらうの、わりと本気で提案したい。

    現存する金営測雨器は1837年製で、高さ31.9センチ、口径14.9センチ、重さは6.2キロあるんだって。

    1915年に日本へ移されたあと、1971年に韓国へ返還されて、今は韓国気象庁が保存してる。

    測雨器を世界初の雨量計と呼ぶこともあるけど、古い時代の降雨測定の記録はほかの地域にもあるから、どこまでを初めてとするかには諸説あるんだ。

    でも、同じ器とルールを各地に広げたところが大事でさ。雨って空から勝手に降るのに、人間はきっちり出席簿をつけ始めるんだよね。

  90. 江戸の京枡統一

    江戸幕府は新京枡を基準に量を統一し、取引と年貢を支えた。

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    雨に出席簿をつけるなら、量を受け止めるますも、きっちり同じ大きさじゃないと困るよね。そこで思い出すのが、江戸時代の京枡なんだ。

    江戸幕府は1669年、当時の新京枡を基準にして、全国の量の決まりをそろえようとしたんだって。

    新京枡の一升は、1辺が4寸9分、深さが2寸7分で、だいたい1.80リットル。米や酒を量る器だから、売り買いにも年貢にもそのままつながる話なんだよ。

    枡のほうも、私の目盛りで決めてくださいって顔をしてそうだけど、勝手にしゃべる器だったら米屋さんは大変だね。

    幕府は京都の福井家と、江戸の樽屋を枡座にして、枡を作ったり売ったりするのを統制したんだ。

    福井家には、西国33か国の公定枡を担った資料が2,139点も残ってる。器の寸法が、国じゅうの暮らしの約束を支えてたわけだね。

    一升って聞くと、升の形をした一生のことかなって一瞬思うけど、もちろん違う。江戸時代には米一升、酒一升みたいに、容量だけじゃなく暮らしの分量そのものだったんだ。

    毎日の食べる量や飲む量まで、四角い木の器が静かに見張ってたと思うと、枡ってずいぶん責任ある顔をしてるよね。

  91. 一升瓶の共通規格

    一升瓶は共通規格で、回収と再利用を支えている。

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    枡が決めた一升は、そのまま一升瓶にも残ってるんだ。木の器の約束が、今度はガラスの瓶に引っ越した感じだね。

    一升瓶には1.8リットル入って、10合で1升。中身のお酒は違っても、瓶の大きさはみんなでそろえられるようになってる。

    1.8リットル瓶は、形や大きさ、材質まで規格で決められた丸正びんなんだ。酒蔵が違っても同じ瓶として扱えるから、回収して洗って、また使えるわけ。

    瓶が戻ってくるたびに、よし次の酒蔵へ出勤だって言いながら、全国を巡っていたらちょっと面白いよね。

    清酒用の一升瓶は戦前から回収して再利用されていて、1973年には大阪府で瓶を運ぶ箱の貸し出し流通も始まったんだ。瓶だけじゃなく、運ぶ箱まで仲間に入ってる。

    1本の瓶が何度も使われるなら、うっかりすると日本中のお酒の話を聞きすぎて、瓶のほうが酒に詳しくなりそうだ。

    ちなみにビール瓶にも共通瓶があって、アサヒ、サッポロ、サントリーは使っている一方、キリンは独自の瓶を使ってる。瓶にも、そろって行動する組と、我が道を行く組があるんだね。

  92. ベークライトの誕生

    ベークライトは1907年に生まれた最初の完全合成プラスチックとされる。

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    瓶を運ぶ箱まで仲間に入るなら、箱のプラスチックにも昔話がありそうじゃん。そこでベークライトの話をしたくなったんだ。

    1907年、ベルギー生まれの化学者レオ・ベークランドが、フェノールとホルムアルデヒドからベークライトを生み出した。

    これ、天然由来の分子を含まない、最初の完全合成プラスチックとされてるんだって。自然の材料を混ぜずに、材料から人が組み立てたプラスチックってわけ。

    しかも熱と圧力をかけて形を作ると、そのまま硬く固まる熱硬化性樹脂なんだ。オーブンで焼いたクッキーみたいに、いったん仕上がったら元の生地には戻らない感じだね。

    熱に強くて電気を通しにくいから、ラジオや自動車部品、電気部品に使われたんだ。熱と電気の前で頼れる、地味に仕事ができるやつだ。

    ベークランドが最初に探していたのは、ラックカイガラムシ由来の天然樹脂、シェラックの代用品だったらしい。虫由来の材料の代わりを探していたら、完全合成プラスチックに着地したわけで、寄り道の到着先としては大きすぎる。

    今の暮らしでも、家のラジオにベークライト製の名札を付けて、熱にも電気にも強い担当ですって自己紹介させる案を本気で出したい。たぶん誰も名札は読まないけどね。

  93. 消える五セント文字

    バッファロー・ニッケルは文字が摩耗しやすく、1913年中に型を変更した。

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    ラジオの名札を考えていたら、バッファロー・ニッケルで言い忘れたことを思い出したんだ。あの硬貨、最初の型には文字が消えやすい場所にいたんだよ。

    1913年初頭の最初の型では、バイソンの足元に盛り上がった地面があって、その上にファイブ・センツって浮き彫りで入っていたんだ。

    浮き彫りの文字は、ポケットの中でほかの硬貨とこすれると、出っ張ったところから先に削られやすいじゃん。クッキーの表面に文字を書いて、そこだけ先にかじられるみたいなものだね。

    だから同じ1913年のうちに、文字のまわりの地面を低くした2番目の型へ替えたんだって。文字を少しへこませて、摩耗から守る配置にしたわけ。

    これが1938年まで使われたんだ。バイソンは堂々としてるのに、足元の文字だけ必死に避難してるのが、ちょっと人間味あるよね。

    ちなみに今のアメリカン・バッファロー金貨の図案は、フレイザーによる1913年の最初の型の意匠がもとになっているんだ。消えやすかった文字のそばにいたバイソンが、今度は金貨でまた登場してる。

    家のラジオの名札も、浮き彫りにしたら読めなくなる前に誰かに読んでもらわなきゃね。いや、名札にそんな切迫感はいらないか。

  94. 米国最初の工学学校

    ウェストポイントの米陸軍士官学校は、米国最初の工学学校だった。

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    ラジオの名札から金貨まで飛んだけど、そのアメリカン・バッファロー金貨を作るウェストポイント造幣所は、米陸軍士官学校の近くにあるんだ。

    金貨のそばに、アメリカ最初の工学学校がいると思うと、急に地面の下まで話が続いてる感じがするよね。

    1802年3月16日、連邦議会は工兵隊を常設の組織にして、ウェストポイントに置き、軍事学校をつくると決めたんだ。

    ここは軍の学校だけど、数学や科学も教えて、土木や軍事技術を担う人を育てる場所になった。土木の細かい話は、また別の機会に掘り返そう。

    しかもアメリカで最初の工学学校で、約20年間は唯一だったんだって。工学の質問箱が全国から1校に届くみたいで、返事を書く先生の腕が何本あっても足りなさそう。

    当時の学生には、砦の近くで数学を習うと、宿題まで軍事機密っぽく見えるのかって聞いてみたいな。

    今の卒業生には理学士号が授与されて、米陸軍少尉として任官するんだ。学校の卒業証書が、そのまま軍への最初の一歩にもなるわけ。

    金貨を作る場所の近くで、橋や技術を考える人を育ててきたんだね。ウェストポイント、地図の一点なのに情報量がずっしりしてる。

  95. 議会図書館は火事から

    焼失した議会図書館は、ジェファーソンの蔵書で再出発した。

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    読み上げ原稿

    ウェストポイントでずっしりしていた情報量から、今度は蔵書のずっしりした話へ行こうか。トーマス・ジェファーソンの本が、米国議会図書館の土台になったんだ。

    1814年、米英戦争の最中にイギリス軍がワシントンの連邦議会議事堂を焼いて、館内の議会図書館にあった約3000冊も失われた。

    本まで焼けちゃった。火事は棚だけじゃなく、中身の知識まで持っていくから困るよね。

    そこで引退後のジェファーソンが、自分の蔵書を代わりに売るって申し出たんだ。1815年、連邦議会は6487冊を2万3950ドルで買った。

    その本はモンティチェロから、馬車11台ほどで首都まで運ばれたんだって。本棚ごと引っ越すというより、移動する小さな図書館だよ。

    しかも法律や歴史だけじゃなくて、科学、芸術、外国語の本まで入っていた。だから米国議会図書館は、いろんな分野を集める方針の土台をここに持ってる。

    私なんて本を増やす前に、まず読みかけの本を机から救出しないといけないのにね。馬車11台どころか、腕2本で持てるのに渋滞してる。

    ただ、1851年のクリスマスイブにまた火災が起きて、このジェファーソン旧蔵書の約3分の2が失われたんだ。

    本は集めるだけでも大仕事なのに、守るのもまた大仕事。知識って、案外火に近い場所で生き延びてきたんだね。

  96. ワシントン塔の地盤工事

    ワシントン記念塔は基礎を補強してから完成した。

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    火から本を守る話をしてたら、首都ワシントンで今度は、重たい石の塔を地面から守り直した話を思い出した。前に土木の話は取っておいたから、ここで回収しよう。

    ワシントン記念塔は1848年に工事が始まったんだけど、資金が尽きて、1854年には高さ約48メートルで止まっちゃったんだ。

    完成前の塔が、途中で休憩に入ってたわけ。石の塔に休憩室はないけどね。

    1878年に工事を任された陸軍工兵隊のトマス・リンカーン・ケイシーは、完成予定の高さまで塔を載せるには、今ある基礎では足りないと判断したんだ。

    そこで塔の足元を補強した。大きな家具の脚が心配なら下に板を足す、あれを桁違いに本気でやる感じだね。

    基礎の補強は1880年5月に終わって、塔は1884年、高さ約169メートルで完成した。上へ伸ばす前に下を確かめるの、地味だけど頼もしいよね。

    途中で使う大理石の採石場が変わったから、塔の約3分の1の高さには石の色の境目が残ってるんだって。塔そのものが、工事の途中経過を着たまま立ってる。

    工事を止めた人たちに、石の色が変わる前にメモは残しておかなかったのかって、どうでもいいけど聞いてみたくなるな。

    ちなみに建設中に石を上げていた装置は、あとで旅客用エレベーターに改造されて、1886年から一般の人も上へ行けるようになった。荷物係が急に観光案内を始めたみたいだ。

    私の机の読みかけの本も、基礎補強より先に救出が必要かも。腕2本で持てる量なのに、今日も渋滞してる。

  97. アルミ精錬の大転換

    高価だったアルミニウムを身近にしたホール・エルー法の話。

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    机の上で渋滞してる読みかけの本から、アルミニウムを思い出したんだ。ワシントン記念塔の頂点にも、小さなアルミニウムのピラミッドが載ってたんだよ。

    1884年のそれは避雷針も兼ねていて、当時はアルミニウム自体がかなり高価な金属だった。今なら台所のホイルで包むものが、塔のてっぺんに飾られる側だったわけ。

    ところが1886年2月23日、アメリカのチャールズ・マーティン・ホールが大きな転換を起こす。溶かした氷晶石にアルミナを溶かし、そこへ電気を流してアルミニウムを取り出す方法を見つけたんだ。

    氷晶石は名前に氷って入るのに、ここでは熱々。冷蔵庫の設定を間違えたわけじゃないからね。

    同じ1886年にはフランスのポール・エルーも、ほぼ同じ方法を独立に開発した。だからこのやり方は、2人の名前を合わせてホール・エルー法って呼ばれてる。

    アルミナはアルミニウムを含む原料で、そこから金属だけを電気で引っぱり出す感じなんだ。たとえるなら、味噌汁に沈んだあさりだけを、電気の力でひょいひょい選び出すような作業だね。

    この方法が大量生産の土台になって、ホール法で作るアルミニウム地金の価格は、1888年の1ポンド4.86ドルから1893年には78セントまで下がったんだ。高級な頂点石が、ぐっと身近な金属へ近づいた。

    ちなみに1855年のパリ万博では、アルミニウムは粘土からの銀として紹介されて、金より高価だった時期もあったらしい。粘土から銀って、工作の時間に出されたら先生の話を3回聞き直すよね。

  98. 星条旗の曲は英国製

    星条旗は1814年の戦いをもとに書かれ、旋律は英国曲だった。

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    火に近い場所で生き延びた知識で思い出したんだけど、1814年のボルティモアの戦いで、フォート・マクヘンリーに星条旗が残っているのを見たフランシス・スコット・キーが、後の国歌の詞を書いたんだ。

    あの星条旗、旗そのものが歌いだしたのかと思った。いや、見た旗に心を動かされて書いたんだよ。

    しかも曲は、18世紀のイギリス曲の旋律なんだって。アメリカの国歌なのに、メロディーは英国製。国歌って意外と輸入品なんだね。

  99. 馬に負けた蒸気機関車

    馬に負けたという伝説を持つトム・サム機関車と、初期の鉄道の話。

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    英国製のメロディーを借りて国歌にしたボルティモアから、今度は鉄道の話を持ち出すよ。

    この町には、馬に負けた蒸気機関車がいたんだ。機関車なのに馬負けって、名前だけ聞くと履歴書の特技欄をそっと閉じたくなるよね。

    ボルティモア・アンド・オハイオ鉄道は、貨物と旅客を運ぶアメリカ初の認可鉄道として、1827年にできたんだ。翌年の起工式では、独立宣言に署名した最後の存命者、チャールズ・キャロルが最初の石を据えたんだって。

    1830年には、ボルティモアからエリコット・ミルズまで約21キロの区間が開通した。線路ができれば、あとは大きな機関車を走らせればいい。そう思うじゃん。

    でも線路には急なカーブと坂があって、大きな機関車には扱いにくかった。そこで発明家のピーター・クーパーが、小回りの利く小型蒸気機関車、トム・サムを作ったんだ。

    台所の大鍋じゃなくて、小さめのフライパンで狭いコンロを使いこなす感じかな。線路にも、体格に合った走り手が必要だったわけ。

    トム・サムは1830年8月28日、鉄道会社の重役を乗せて試運転して、時速約16から23キロまで出した。人を乗せてちゃんと走る姿を見せたんだから、かなりの晴れ舞台だよ。

    ところが有名なのは、帰り道に馬車鉄道と競走して、送風機のベルトが外れたせいで馬に負けたという話なんだ。蒸気の力と馬の脚、夢の対決だね。

    ただ、これは諸説あるんだけど、同じ時代の記録では確かめられない伝説とされてる。だからトム・サムに敗戦の黒星を付けるのは、ちょっと早いんだよね。

    そういえばこの鉄道の線路敷は、1844年にモールスがワシントンからボルティモアへ最初の電信を送るときにも使われたんだ。モールスの電信の話は、信号まで走り出しそうで、また別のときに取っておこう。

    本題へ戻すと、トム・サムは営業用には採用されず、1834年には部品取りのため解体された。初走行のスターなのに、最後は整備箱へ戻ったみたいで少し切ない。

    でも馬に負けたかもしれない機関車が、鉄道の未来を見せた。勝敗より、最初に走ったことのほうがずっと煙を吐くほど大事だったのかもね。

  100. ゼリー粉の大逆転

    機関車のクーパーの粉末ゼラチンが、広告でジェローへ育った話。

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    あのトム・サムを作ったピーター・クーパーで思い出したんだけど、彼が残したのは機関車だけじゃないんだ。

    お湯を注いで冷やすだけの、あのぷるんとしたデザートにも、クーパーがつながってる。

    でもさ、どうしてただの粉が、昔はお金持ち向けだった料理を台所へ連れてきたんだろうね。

    昔のゼラチン菓子は、子牛の足みたいな材料を何時間も煮て、脂を取り、こして、型に流して、氷で冷やして作っていたんだ。

    ぷるぷる一皿の裏で、台所が長編映画を撮ってるくらい手間がかかる。だから主に裕福な家庭の食卓に並ぶ料理だった。

    そこでクーパーの出番だよ。接着剤の事業から生まれた発想で、1845年に、お湯を加えるだけで使える携帯用ゼラチンの特許を取ったんだ。

    携帯用って聞くと、ゼリーが旅行かばんを引いて駅にいるみたいだけど、持ち運べる粉にしたという意味ね。

    ただ、この便利な粉末は、すぐ大ヒットしたわけじゃなかった。発明って、便利なだけでは食卓の主役になれないんだよね。

    ここで話がひとつ跳ねるんだけど、ニューヨーク州リロイで咳止め薬を作っていたパール・ビクスビー・ウェイトが、その粉末に砂糖と果実の風味を加えた。

    そして1897年、ジェローという名前で売り出したんだ。苦い薬を作る人が甘いデザートへ向かうの、台所の角を曲がったら急に遊園地だった、みたいな転換だよ。

    名前は妻のメイ・ウェイトが付けたって言われてるんだけど、諸説あるんだ。クーパーの特許権がいつ、どんな形でウェイト側へ移ったかも、資料によって1895年説と1897年説がある。

    つまり、粉のバトンが誰の手を経て渡ったか、その細かいところは少し霧の中なんだね。

    それで、熱湯で溶かして冷やすだけで固まるのはなぜか。ここ、地味だけど台所の手品なんだ。

    ゼラチンは冷えると、細い糸が網目を作るみたいに広がって、水を抱え込む。温めるとその網目がほどけるから、溶かしてから冷やすだけで形が決まるんだ。

    お湯の中では、ゼラチンが今日は自由行動ですって顔をしていて、冷蔵庫に入ると急に手をつないで並び始めるわけ。

    さて、本筋へ戻ると、ウェイト夫妻も最初は販売に苦戦した。1899年には事業を、同じリロイのジェネシー・ピュア・フード社のオレーター・ウッドワードへ450ドルで売ったんだ。

    粉も名前もあるのに売れない。じゃあ次に必要だったものは何だと思う。

    答えは、食べ方の想像だった。ウッドワードは商品だけでなく、レシピ冊子、雑誌広告、店頭ポスターを使って、ジェローで何を作れるかまで広めたんだ。

    1900年代の初めには、鮮やかな多色刷りの広告やレシピ本が、食品ブランド同士の勝負道具になっていた。粉末を売るというより、食卓の楽しそうな場面ごと売ったんだね。

    実際、米国議会図書館には、1905年ごろのストロベリー味の多色刷りポスターが残ってる。箱の中身だけじゃなく、名前を覚えてもらう時代が来ていたわけ。

    1906年の新聞広告では、レモン、オレンジ、ラズベリー、ストロベリー、チョコレート、チェリーの6種類を、各10セントで売っていた。1904年のセントルイス万博で金賞を取ったことも宣伝してたんだ。

    そして1930年代には、甘いものにも塩気のある料理にもゼラチンが使われて、当時の料理本のレシピのおよそ3分の1がゼラチン料理だったと紹介されている。

    3分の1って、献立帳を開くたびに、ぷるんがこちらを見てくる濃さだよ。

    馬に負けたかもしれない機関車を作った人が、今度はゼリーの土台を作っていたと思うと、クーパーの発明は線路から冷蔵庫まで走ってる。

    ただしゼリーは馬と競走しなくていい。揺らしただけで、もう全力で負けそうだからね。

  101. 真珠を育てた人々

    養殖真珠は御木本ら複数人の工夫で丸い珠へ育った。

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    ゼリーのぷるんで思い出したんだけど、真珠も貝の中で何層も重なって育つんだ。しかも丸い養殖真珠は、御木本幸吉1人だけの発明じゃない。

    真珠は、貝の体に異物が入ったとき、それを包み込もうとして真珠層を重ねてできるんだって。現代の養殖では、核になる貝殻のビーズと外套膜組織を貝の中に入れて、その組織が真珠袋を作り、核の表面を少しずつ覆っていく。

    つまり貝は、体の中に入った困りものへ、何重もの上着を着せているようなものなんだ。寒くないよ、そこにいてねって。いや、異物には退場してほしいはずだけど。

    鳥羽出身の御木本幸吉は、1888年に英虞湾で真珠養殖を始めた。でも1892年には赤潮で養殖貝の大半を失ってる。育ててきた貝が一気に減るなんて、かなり苦しい場面だったはずだよ。

    それでも翌1893年、アコヤガイの殻の内側に、半円形の養殖真珠を作ることに成功した。ネックレスに並ぶ丸い珠じゃなくて、殻にくっついた半円の真珠だったんだ。

    御木本はこの方法で1896年に特許を取り、その後も丸い真珠を研究して、1905年には真円真珠の生産成功が記録されている。けれど、今につながる丸真珠の核入れ法は、見瀬辰平と西川藤吉の仕事も重要で、御木本も1916年から使い、1921年に丸い養殖真珠が市場へ出たんだ。

    御木本幸吉が世界で初めて養殖真珠を発明したって言われてるんだけど、1893年の半円真珠についてはそう言えるとしても、丸い養殖真珠の技術と事業化は、何人もの人がつないだ成果として見るのが正確なんだよね。

    そういえばアコヤ真珠は、だいたい10から14か月かけて育つんだ。寒い時期にゆっくり作られた真珠層ほど細かく詰まって、光沢がよくなるとされてる。

    急いで重ねた層より、時間をかけた層のほうが光る。真珠って、貝が静かに仕上げた小さな作品集みたいだよ。

  102. 赤潮を見張る衛星

    海色観測衛星が赤潮の手がかりを宇宙から追う仕組みの話。

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    真珠の層が光を作るなら、海の色だって何かを語っていそうだよね。海が赤っぽく変わる赤潮を、宇宙から見張ろうとした衛星の話をするよ。

    赤潮は、植物プランクトンなどが増えて海の色が変わる現象なんだ。海面に絵の具を流したみたいに見えるけれど、色を変えている主役は小さな生き物なんだよね。

    そこで人は考えたわけ。船で海水をくむ代わりに、上空から海の色を測れば、ずっと広い範囲の変化を追えるんじゃないかって。

    1978年10月24日、アメリカ航空宇宙局はニンバス7号という環境観測衛星を打ち上げた。そこには、海の色を観測するための最初の衛星センサーが載っていたんだ。

    名前は沿岸域色彩走査機。ちょっと強そうな名前だけど、やることは海面から返ってくる光を、とても細かく見分けることだった。

    ここから見え方が変わるんだけど、衛星が見ているのは赤潮そのものじゃない。海の色をいくつかの色の帯に分けて、そこから海の中を推理しているんだ。

    沿岸域色彩走査機は6つの波長帯を観測して、そのうち443、520、550、670ナノメートルの4つを主に海色の解析に使った。

    ナノメートルはものすごく小さい長さの単位で、1メートルを10億個に切ったうちの1個分。海の色を読むために、定規まで宇宙規模で細かくしてる。

    ただ、巨大な定規を10億本並べて海を測ってるわけじゃないからね。そんなことをしたら地球が急に工作の時間になっちゃう。

    特に手がかりになるのがクロロフィルだよ。植物プランクトンが持つ色素で、その量の分布を地図にすると、プランクトンが多い場所を広い海の上で見つけられる。

    栄養塩が海の深い所から湧き上がる場所や、沿岸から濁った水が流れ込む場所も、色の違いとして捉えられるようになったんだ。

    昔の船での観測と比べると、船は一点をじっくり調べる健康診断、衛星は地球の海を上から眺める体温計みたいなものかな。どちらも必要で、得意な見え方が違うんだよね。

    で、計画では最初の1年だけ技術を試す予定だったのに、沿岸域色彩走査機は1978年から1986年まで観測を続けた。予定よりずいぶん長い付き合いになったんだ。

    海洋生物の生産活動を世界規模で見る最初の画像が得られて、季節ごと、年ごとのプランクトン量の変化を比べる土台にもなった。

    私なんて冷蔵庫の中身を数日分も比較できないのに、衛星は海の変化を何年も記録してたわけ。保存容器のふたを探してる場合じゃないな。

    少し脇道にそれると、衛星が受け取る光の大部分には大気の影響が混ざっている。だから海から出た弱い信号だけを取り出すには、大気補正が欠かせないんだ。

    窓越しに水槽を見ると、部屋の照明や窓の反射まで一緒に見えるじゃん。海の色を読むときも、まず空気が足した色をほどかないといけないわけ。

    さて海へ戻ると、色が分かれば赤潮の原因生物まで衛星だけで名指しできるのか、って思うよね。そこは残念ながら、そこまで単純じゃない。

    衛星が直接見ているのは海面から返る光だけで、雲や大気、泥、溶存有機物、浅い海底の反射も色に混ざる。だから採水して検査する現場の観測と組み合わせる必要があるんだ。

    その後はシーウィフスが1997年から2010年まで引き継ぎ、今はモディス、ヴィアーズ、センチネル3号のオーエルシーアイなどが海色データをつないでいる。

    真珠は貝が時間をかけて層を重ね、衛星は海の色を時間をかけて重ねていく。どっちも、すぐには見えない変化を光で読んでるんだよね。海って、青い顔をしてずいぶん情報量が多い。

  103. モールスの電信

    モールス電信は共同開発と中継で遠距離通信を実用化した。

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    海の色を衛星から送るには、見えないところでデータを地上へ届けなきゃいけないよね。その遠くへ知らせる仕組みをたどると、紙に小さなへこみを刻んだ通信へ行き着くんだ。

    電線の向こうで、どうして文字が読めるようになるのか。最初はちょっと、念力の文通みたいに聞こえる。

    仕掛けは意外と単純で、送る側が回路をつないだり切ったりして電流を断続させる。その電流で受ける側の電磁石を動かし、針が紙テープへ短いへこみと長いへこみを残したんだ。

    電磁石は、電気が流れる間だけ磁石になる部品ね。冷蔵庫の磁石が、仕事中だけ急にやる気を出す感じだ。

    ただし電気の合図は、遠くまで行くほど弱ってしまう。そこで途中に中継器を置いて、届いた弱い合図を次の区間用の新しい電気として送り直した。

    この電信を実用化した中心にはモールスがいて、化学者のレナード ゲール、電磁石を研究したジョセフ ヘンリー、技術者のアルフレッド ヴェイルらが協力していたんだ。短点と長点の符号を誰がどこまで考えたかは諸説あるんだけど、ひとりでひらめいた発明というより共同開発として見るのが自然なんだって。

    しかも最初の長距離実験線は、地面の下に鉛の管入りケーブルを埋める予定だった。でも絶縁がうまくいかず失敗して、エズラ コーネルらが電線を電柱と木に架け、ガラスの絶縁体を使う方式へ切り替えた。

    木に電線を架ける作業を見た当時の人に、木のほうには事前に説明したのかだけ聞いてみたい。急に通信網の一員にされた木、責任が重い。

    米議会が1843年に3万ドルを出した実験は、翌年5月24日、ワシントンとボルティモアの約40マイルを結んだ。モールスが議事堂内の最高裁判所室からヴェイルへ送った文が、神は何を造り給うたのかだった。

    この最初の文はモールスが作った言葉じゃなくて、友人の娘アニー エルズワースが提案した民数記の一節だったんだ。通信の大一番で、言葉選びを頼まれる娘さん、急に歴史の編集者だよね。

    最初は紙テープのへこみを読んでいたけれど、やがて受信器の2種類の音を聞き分け、その場で文字に書き取るようになった。通信は紙の傷跡から、耳で追うリズムへ変わったわけ。

    1865年には国をまたぐ電報の料金や手続きと一緒に、この符号と機器の採用が決められ、国際電気通信連合の前身も生まれた。海色のデータも電信も、離れた場所の変化を合図にして受け取る仲間なんだ。

    短い音と長い音だけで、遠い町から返事が来る。考えるほど、電線の中で言葉が小走りしてるみたいで落ち着かないな。

  104. 真珠層はレンガ壁の強さ

    真珠層は硬くて脆い結晶に柔らかい有機物を挟んだレンガ構造で、粘り強さが約1000倍になる。

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    作品集って言ったけどさ、その中身を思いきり拡大すると、実はレンガの壁なんだよ。

    真珠の表面を作ってる真珠層は、炭酸カルシウムの結晶の板が、薄い有機物の層を挟みながらレンガみたいに積み重なった構造なんだ。

    結晶のほうはアラゴナイトって呼ばれてる。有機物はタンパク質とかキチンとか、要するにレンガの間のモルタルだね。

    ここでクイズ。このアラゴナイト単体は、硬いけど脆いんだ。じゃあモルタル役の有機物を混ぜると、粘り強さはどれくらい上がるでしょう。

    選択肢は、1つ目、10倍くらい。2つ目、100倍くらい。3つ目、1000倍くらい。

    しかもその有機物、全体のわずか数%しか入ってないんだよ。

    ……考えた?

    答えは3つ目。2007年の総説だと、破壊靭性、つまり割れにくさ、粘り強さの指標が、アラゴナイトのおよそ1000倍って報告されてるんだ。

    ただ、この1000倍っていう数字は、その総説の値なんだって。貝の種類や測り方で変わるから、諸説あるんだけどね。

    モルタルの厚さも20から30ナノメートルしかない。髪の毛の太さの何千分の1ってレベルだよ。

    私ね、これ聞いて本気で思ったんだ。せんべいを缶に詰めるとき、間に薄いこんにゃくを数%挟めば、割れなくなるんじゃないかって。食べるときこんにゃくをどけるのが面倒だけどね。

    で、2019年のミシガン大学の研究が、仕組みをもっと細かく見せてくれたんだ。

    力がかかると、モルタルが押しのけられて、板同士ががっちりかみ合う。そうするとほぼ一枚の固体みたいになって、力を抜けば元に戻るんだって。

    しかも戻っても強度は落ちない。降伏強度の80%までの衝撃を繰り返しても、粘り強さは変わらなかったそうだよ。電子顕微鏡の中に微小な圧子を入れて、その場で観察したんだって。

    混み合った電車で、みんなが一瞬ぎゅっと固まって、降りたらふわっとほどける感じかな。

    ちなみにこの層の輝きには、虹色が関わる話もあるんだけど、それはまた後でね。

    この構造を手本に、人工の真珠層とか、強くて粘り強いセラミックスを作る研究も進んでるんだ。2012年や2014年に、有名な科学誌にも論文が出てるよ。

    それにしても、私はモルタルなしのアラゴナイト単体タイプだなあ。見た目は硬いのに、朝に牛乳を切らしてただけで、一日ぜんぶ崩れるからね。

    君のまわりにも、そっと挟まってくれてる柔らかい層、きっといるんじゃないかな。

  105. 螺鈿は貝の真珠層の工芸

    螺鈿は真珠層の貝を削って貼る工芸で、正倉院の五絃琵琶や薄貝作りの変遷を語る。

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    その虹色の層をさ、貝から薄く削り出して、漆の器にペタッと貼っちゃった人たちがいるんだよ。

    それが螺鈿っていう工芸。アワビとかチョウガイ、ヤコウガイみたいに、内側に真珠層を持つ貝を使うんだ。

    日本には8世紀に中国から伝わったって言われてるんだけど、ここは資料によって説明が違うんだよね。

    正倉院の宝物には唐から運ばれてきた品も混じってて、どれが国産かは今も議論があるんだって。

    その正倉院にあるのが、螺鈿紫檀五絃琵琶。聖武天皇が大事にしてたって言われてる品でね。

    夜光貝と玳瑁で、表面を全面びっしり飾ってあるんだ。

    しかも五絃の琵琶で現存するのは、これだけ。世界でたった一つなんだって。

    奈良時代の日本では、夜光貝を使った厚貝の螺鈿がもう見られるんだ。

    厚貝っていうのは、真珠層の厚さが0.1から2ミリくらいのもの。糸鋸で切って、木に埋め込む象嵌に使う。

    厚いって言うから分厚い板を想像したけど、最大でも2ミリか。厚貝の厚は、薄貝と比べたときの厚さなんだね。

    その薄貝はもっと薄くて、小刀や鏨で打ち抜いて、漆で直接貼りつけるんだ。

    平安時代になると、日本では蒔絵と組み合わせる独自の展開が生まれたんだって。

    で、ここからが意外なんだけど、昔の薄貝は貝を3日から7日も煮て作ってたんだよ。

    煮込んだ貝から、薄い層をぺりっとはがす。おでんの大根みたいに、じっくり煮て仕上げる感じだね。貝のほうは、そんなつもりなかっただろうけど。

    いまは機械の研磨機で削るんだ。熱で傷まないように、水で冷やしながらね。

    中国では、紙より薄いって評された螺鈿もあるんだって。貝殻がだよ、紙より薄いの。

    時代は飛んで1877年。正倉院の宝物を模造する事業が、修復命令をきっかけに始まったんだ。

    五絃琵琶の模造は、螺鈿と木工と絵画の専門家が集まって、8年かけて完成したって言われてるよ。

    ただこれは展覧会の報道にあった話で、どの模造のことかは、はっきりしないみたい。

    そして1999年、螺鈿の技は重要無形文化財に指定されたんだ。

    1300年くらい前の貝殻の輝きが、いまも人の手でちゃんと続いてる。そう思うと、ちょっと背筋が伸びるよね。

  106. べっ甲は水と熱だけで貼る

    べっ甲は水と熱と圧力だけで接着剤なしに貼れ、直しながら使われ、今は石垣島で養殖が進む話。

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    玳瑁って聞くとさ、貝の次は亀の話になるんだよ。琵琶を飾ってた玳瑁の正体は、タイマイっていうウミガメの甲羅なんだ。

    しかもこのべっ甲、接着剤なしでくっつくんだって。使うのは水と熱と圧力だけ。

    やり方はこう。水に浸した甲を熱した鉄板で温めて、油圧機で加減しながら押し固めて重ねる。すると甲羅同士が一つになる。

    たとえるなら、ほかほかのお餅を二枚重ねて押したら、ひとつになっちゃう感じかな。

    で、この方法の強みは、割れても多くは同じ技法で直せること。

    久能山東照宮には、徳川家康の眼鏡って伝わる品があるんだけど、古い品が今も残っているのは、直しながら使えるからかもね。

    タイマイの立場で言わせてもらうとさ、割れてもまた貼れますよって言われてもね。こっちは背中なんだけど、ってなるよね。

    歴史もかなり古くて、飛鳥から奈良の時代にさかのぼるんだ。正倉院には玳瑁杖があるし、平安時代の道明寺天満宮の玳瑁装牙櫛は国宝になってる。

    江戸のほうは、1841年の文献に、江戸中期の初めには技術が確立してたって書かれてる。2015年に江戸べっ甲、2016年に長崎べっ甲が、国の伝統的工芸品になったんだ。

    ただ、原料のタイマイはワシントン条約でいちばん厳しい区分に入ってる。体長は約90センチ、体重は約60キロの中型のカメで、日本だと南西諸島が、太平洋側の産卵の北限って言われてるよ。

    輸入が止まった年は、諸説あるんだよね。1992年とする記事もあれば、1994年に日本政府が条約の留保を撤回したとする話もあるし、WWFは1997年以降って書いてる。

    国内の甲羅の在庫も、1995年に188.4トンって報告されてるけど、本当に禁止前の在庫なのか疑問が出てるんだって。

    それで業界は、2017年に石垣べっ甲株式会社をつくって、石垣島で養殖を始めた。飼育は400頭以上で、年に100頭以上が孵化した年もあるんだって。

    私さ、前にせんべいの間にこんにゃくを挟む話をしたじゃん。べっ甲ならせんべいも水と熱でくっつくかなって、一瞬思ったんだ。油圧機を缶に入れる場所がないけどね。

    貝の輝きの次は、亀の背中が千年以上、人の手元に残ってる。みんなの身の回りに、直しながら使い続けてるものってある?

  107. 真珠の虹色は光の干渉

    真珠の虹色は色素でなく、薄い層の光の干渉などによる構造色という話。

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    亀の甲羅の話をしてたらさ、貝のほうに置きっぱなしにしてた宿題を思い出したんだよ。

    真珠層の虹色。あとで話すって言ったまま、私、ずっと放ってた。

    じゃあ問題。真珠の虹色って、色素の色でしょうか。それとも、もっと別の仕組みでしょうか。

    ちょっと考えてみて。

    答えは、色素じゃないほう。構造色って呼ばれる、光の干渉なんかで生まれる色なんだ。

    色素の色なら、赤いインクを傾けても赤いままでしょ。でも真珠層は、傾けると色がすーっと移ろっていく。それが色素じゃない証拠なんだよ。

    中身はアラゴナイト、つまり炭酸カルシウムの板状の結晶が、何層も積み重なってる。

    その板1枚の厚さが、約0.4から0.5マイクロメートル。目に見える光の波長が、約0.4から0.8マイクロメートルだから、ほぼ同じ大きさなんだ。

    すると、層の表で跳ね返った光と裏で跳ね返った光が、重なって強め合ったり、打ち消し合ったりする。ブランコを押すタイミングが合うと大きく揺れて、ずれると止まるのと同じ感じだね。

    ちなみに0.4マイクロメートルって、1ミリの中に2500枚くらい並ぶ細かさなんだ。ミルフィーユ屋さんが全員土下座するレベルだよ。まあ、ミルフィーユは食べるものだから、土下座されても困るけど。

    愛媛大学の資料だと、アコヤガイの真珠層は、結晶層の厚さと見える色に規則性があるんだって。

    反射の強さが一番高くなる点が可視光の範囲に入ると、厚さが全然違うのに、赤、青、緑、黄といった同じ色が2回出てくるらしい。

    しかも、価値の高い真珠を作る厚さの層は、正面から見ると青緑色で、傾けると赤色に見えるって言われてるんだ。

    ここからは諸説あるんだけどね。虹色の主役が干渉なのか、回折なのかは、貝の種類で違うって言われてるんだ。

    アワビの貝殻だと、表面の細かい溝による回折と、内部の積み重なりによる干渉、その両方が関わるとされてる。溝が色を作るって示したのは、19世紀のブリュースターって人なんだって。

    ブリュースターって名前だけ聞いて、ビールを造る人かと思っちゃった。いや、色の話で来てるのに、ビールじゃないよね。

    で、アコヤガイの真珠で、干渉と回折のどっちがどれだけ効くのかは、まだ諸説あるんだって。だから、干渉だけで全部決まる、とは言い切れないんだよね。

    板の厚さの数字も資料でばらつくから、数百ナノメートルくらい、って覚えておくのが無難みたい。

    色を塗ってないのに、傾けるたびに色が変わる。絵の具がなくても色は作れるんだなあ、って、ちょっとしみじみしちゃうよ。

  108. バッファローの石アンモライト

    バッファローの石アンモライトの、護符から宝石への歩みと諸説。

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    絵の具がなくても色は作れる、って話をしたけどさ。絵の具どころか、貝が石になってまで虹色を残してる宝石があるんだよ。

    アンモライトっていってね。7000万年以上前、白亜紀の終わりごろのアンモナイトの殻が、そのまま化石になったものなんだ。

    主な持ち主はプラセンティセラスっていう仲間。その殻のアラゴナイトの層が、今も虹色に光ってる。

    さっきの真珠と同じ材料ってところが、まずおいしいよね。

    しかも、宝石になる品質のものが採れるのは、カナダのアルバータ州南部のベアポー層だけって言われてるんだ。

    この地層、お隣のサスカチュワン州やモンタナ州にも広がってるのに、輝く石が出るのはアルバータの一帯だけなんだって。同じパン生地で焼いたのに、一か所だけ当たりが出る感じだね。

    今日は、この石の昔と今を比べてみようと思う。

    まず昔。この土地に住むブラックフット族は、この石をイニスキムって呼んでた。バッファローの石、って意味だよ。

    狩りの護符でね。バッファローを呼び寄せて、繁栄をもたらす石だと信じられてたんだ。バッファローの皮に包んで、狩りの儀式に持っていったんだって。

    伝承も残っててさ。ある話では、若い女性が夢で精霊から石のありかを教わるんだ。

    手がかりは、石が歌うこと。そのあと長老たちが儀式をしたら、翌朝バッファローの大群が現れた。

    別の版では、薪を拾いに出た妻が歌声を追っていって、ハコヤナギの根元で輝く石を見つけるんだよ。

    私、この奥さんに聞いてみたいんだよね。石は見つけたけど、薪は結局持って帰れたの、って。

    民族誌家のグリンネルは、その音を「かすかなさえずり」と書き残してる。石が鳥みたいに鳴くんだね。

    さて、ここで一回寄り道するよ。

    この虹色の正体は、真珠と同じ構造色なんだ。薄いアラゴナイトの層の厚さが違うと、赤から青紫まで色が変わる。

    慶應義塾大学の研究だと、板と板のあいだの隙間は約4ナノメートルって分かってるんだって。髪の毛の太さの、何万分の一っていう世界だよ。

    その隙間のおかげで、光が行ったり来たりして色が決まる。7000万年たっても、色が抜けないわけだよね。

    はい、話を昔と今の比べっこに戻すよ。

    でね、ここからが意外なんだけど。こんなに昔から知られてたのに、宝石として加工されたのはずっと最近なんだ。

    科学的な記録は1900年代の初め。カナダ地質調査所が、虹色のアンモナイトを報告したんだって。

    これが1906年とも1908年とも書かれてて、はっきりしないんだよね。

    カットした石が装身具として展示されたのは、1962年。アルバータ州ナントンの、小さな宝石展だったそうだよ。

    そして1967年。カルガリーの鉱物店主、マルセル・シャルボノーが、アンモライトって名前をつけた。

    どうして名前だけじゃなく、作り方まで工夫が要ったのか。それは、層が薄くてもろいからなんだ。

    虹色の殻を母岩にのせて、透明な石英で覆う。ダブレットっていう合わせ石にしたんだよ。今でも頁岩やオニキスで裏打ちして、石英やスピネルで覆って仕上げてる。

    つまり、割れやすい虹色を、サンドイッチにして守ってるわけだ。

    1981年には、国際貴金属宝飾連盟の色石委員会が、宝石として認定した。

    これを「過去300年で宝石と分類された3種のうちの1つ」って紹介することがあるけど、主に業界や採掘会社が宣伝で使う言い方らしいよ。そう言われてる、くらいで聞いておくのがいいかもね。

    ほかにも数字は割れてて、年齢は約7100万年とも約7500万年とも言われてる。

    アルバータ州の公式宝石になった年も、2004年説と2022年説があるんだ。ただ、2022年3月の紋章法の改正のほうが、報道の裏付けがあるんだって。

    宝石になる化石は、ほぼ5%前後。資料によっては3から5%。ほとんどは、ただの化石のまま終わるんだね。

    色は赤や緑が多くて、青や紫はすごく珍しい。多層の色が出るから、七色の繁栄の石とも呼ばれてるよ。

    バッファローを呼ぶ石ってことはさ、今の暮らしなら、行列のできる店のレジ横に置いたら繁盛しそうじゃない?

    私は本気で提案したい。ただし、本物のバッファローが来たら、席が足りないけど。

    今も採掘には先住民が関わってる。大手のコーライト社は、ブラックフット連邦のカイナイ族の首長夫妻が全株を持つ会社に買収されたと報じられたんだ。

    産出は、州の化石遺産法のもとで厳しく管理されてる。

    護符だった石が、法律に守られる宝石になった。持ち主は変わっても、誰かが大事に抱えてる点は同じなんだなあ。

    みんなの家の石も、夜中に小さく鳴いてないか、ちょっと耳を澄ましてみてよ。

  109. CIBJOとブルーブック

    宝飾業界の用語基準ブルーブックと、作成団体シボの歴史や名前の由来の話。

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    法律に守られる宝石、って言ったけどさ。そもそも、これは宝石です、って誰が決めてるんだろうね。

    実は、宝飾業界には世界共通の用語集みたいな本があるんだ。名前はブルーブック。

    じゃあ問題。これ、誰が作ってると思う? 国? それとも、どこかの大きな宝石屋さん?

    まず手がかりその1。国連の機関じゃないし、法律でもないんだよ。業界が自分たちで決めた自主基準なんだ。

    手がかりその2。ISOっていう国際的な規格の団体があるでしょ。あそこが認めた宝飾業界の規格って、ほとんどないんだって。

    その中で、ブルーブックは一番広く受け入れられた世界標準の一式って言われてるんだよ。

    町内会のゴミ出しルールみたいなものかな。役所の法律じゃないのに、守らないと、あの人あれ出してるよって空気になる。

    手がかりその3。作ってるのは、1926年にパリで生まれた団体なんだ。最初はビボアって名前だったんだって。

    1961年に改組して名前も変えて、規約も改めた。それまでヨーロッパ中心だったのが、ほかの地域の会員も入れるようになったんだよ。

    今の名前はシボ。正式名はフランス語で、ダイヤモンドと真珠と宝石と金銀細工をぜんぶ並べた、とんでもなく長い名前なんだ。

    英語だと世界宝飾連盟。本部はスイスのベルンにあるよ。

    ここでちょっと寄り道ね。ブルーブックって、なんで青なんだと思う?

    最初は3冊組で、宝石編が青、ダイヤモンド編が灰色、真珠編が緑。表紙の色で呼び分けてたんだって。

    その中の青いやつの呼び名が定着した、って言われてるんだ。灰色の本のほうは、ずっと灰色さんって呼ばれてたのかな。

    さて、答え合わせ。作ってるのは、その宝飾業界の団体のシボでした。

    その後も本は増えて、2007年に貴金属編、2010年に宝石鑑別ラボ編、2015年にサンゴ編が加わったよ。

    自主基準なのに力があるのは、裁判で使われたことがあるからなんだ。2004年11月、ミュンヘンの地方裁判所が、合成ダイヤを売る業者に、養殖ダイヤって言い方をやめなさいって命じたとされてる。

    そのときの根拠がブルーブックだった、って言われてるんだって。ただ、判決の細かいところや1926年の創立会議の様子は、公式の資料で裏が取れてないみたいなんだよね。

    拘束力も国や場面で違うから、万能の聖書じゃないんだ。

    2006年には国連の経済社会理事会から協議資格をもらってる。2026年は創立100周年で、9月にはイタリアのヴィチェンツァで記念の大会が開かれたよ。

    6冊も揃うと、結構な厚みになりそうだよね。薪の足しになるかも、って一瞬思った私は、あの石を拾った奥さんと同じ側の人間だと思う。

    燃やさないよ。燃やさないけど、石の名前を決める本が、色で呼ばれてたのは、ちょっと愛嬌があっていいなあ。

  110. ヴィチェンツァ、最古の屋内劇場

    ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコは現存最古の屋内劇場で、奥行きのだまし絵の街路が今も残る。

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    ヴィチェンツァって聞くとさ、あの町には、世界でいちばん古い屋内の劇場が残ってるんだよ。

    テアトロ・オリンピコっていって、1585年に『オイディプス王』で柿落としをしたんだって。

    で、舞台の奥に七本の街道が伸びてるんだけど、あれ、実は短い奥行きを遠近法で長く見せただまし絵なんだ。

    ちなみに世界最古っていうのは、現存する屋内劇場、っていう限定つきなんだって。

    400年以上、ずっと同じ場所で、これ本当は数メートルなんだけどなあ、って思いながら長い街のふりをしてるんだよ。

    しれっと続けてるその根性、ちょっと見習いたいね。

  111. ヴィチェンツァは金細工の町

    ヴィチェンツァは金細工の町で、ギルドの基準や見本市、宝飾博物館を通じてアンモライトの回の国際団体ともつながる。

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    長い街のふりをしてるあの町の名前、ヴィチェンツァだけど、じつはアンモライトの話と一本の線でつながってたんだよ。

    アンモライトの回で、宝石の呼び名を決める国際団体が出てきたじゃん。チボっていうやつ。あれが、ヴィチェンツァと縁があるんだ。

    というのもこの町、劇場で有名だけど、本業の顔は金細工の町なんだよね。

    1339年には、金細工師のギルド、フラリア・デリ・オラーフィができてる。そこで純度や品質の基準を決めたんだって。

    これ、ラーメン屋の暖簾分けみたいなものだよね。うちの名前を掲げるなら、この味は守れよ、っていう。基準を決める人たちが昔からいたわけ。

    石の呼び名を決める団体と、金の純度を決めるギルド。どっちも、これは本物ですって言える線を引く仕事なんだよ。そこが同じ。

    じゃあ、ここでクイズ。今のヴィチェンツァに、宝飾の会社はいくつあると思う? 70社? 700社? それとも7000社?

    ……考えた?

    正解は、700社超。そこで働く人が約1万人。

    1万人って、毎朝みんなが一斉に指輪を磨いたら、町の空気がキラキラして夜でも電気いらないんじゃないかな。いや、いるけど。

    さて、ちょっと脇道。そのチボが、2026年の総会をヴィチェンツァで開く予定だって案内されてるんだよ。日程や会場までは、私は確認できなかったんだけどね。

    で、本題に戻ると、この町の金細工はルネサンス期、ヴェネツィア共和国の下で名声を得たんだ。ヴァレリオ・ベッリっていうメダル作家で宝石彫刻家が、技を芸術の域まで引き上げたって言われてる。

    1577年には、町の銀製の模型、ヴィチェンツァの宝石、っていうのが奉納品として作られた。ナポレオン戦争のころに失われて、2011年に復元されたんだって。

    起源はもっと古くて、古代ヴェネティ人の青銅や金の装身具までさかのぼる、って言われてる。紀元前600年ごろに、留め具のフィブラを作ってたって紹介もあるんだけど、これは観光案内なんかの話で、確かな史料の裏付けは弱いらしいよ。諸説あるってやつだね。

    今につながるのは1954年9月。第1回の全国金銀見本市がサルヴィ庭園で開かれて、これがヴィチェンツァオーロの起源なんだ。1971年に今の会場へ移って、1月と9月の年2回。2024年に70周年を迎えてる。

    そして、パッラーディオの大建築バジリカ・パラディアナの中には、410平方メートルの常設の宝飾博物館まであるんだよ。パッラーディオ本人と金細工師の関係は、私は確認できなかったけどね。

    建築の巨匠の作品の中に、ちゃっかりキラキラが住んでるわけだ。

    舞台では背景がだまし絵なのに、宝飾のほうは基準で本物を守ってる。この町、だます技と見抜く技の両方を持ってるんだよね。みんなは、どっちが得意?

  112. パラディオ式窓の生まれた広間

    崩れた市庁舎の再建で選ばれたパラディオが、セルリアーナで不ぞろいな柱を包み込んだ話。

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    読み上げ原稿

    ちゃっかり住んでるって言ったけどさ、あの建物、キラキラが入居するずっと前に、一回ガラッと崩れてるんだよ。

    バジリカ・パラディアナは、もとは中世の市庁舎でね。パラッツォ・デッラ・ラジョーネっていう名前だったんだ。

    周りをぐるっと回廊が囲んでたんだけど、その一角が1496年ごろに崩れた。

    それで、どう直すかって話になるじゃん。ところが、この議論が数十年も続くんだよ。

    家族旅行の行き先が決まらなくて、気づいたら子どもが成人してた、みたいな話だよね。

    しかも相談された建築家が豪華でさ。1496年にはアントニオ・リッツォとジョルジョ・スパヴェント。

    1538年にサンソヴィーノ、1539年にセルリオ、1541年にサンミケーリ、1542年にジュリオ・ロマーノ。

    名前を並べるだけで、建築の教科書の目次になるメンバーなんだけど、それでも決着しなかった。

    で、最後に選ばれたのが、地元のアンドレア・パラディオの案。ここからが本番だよ。

    案が認められたのは1546年ごろ。ただ、資料によっては1548年って書いてあって、年はちょっとずれてる。

    で、いきなり全部は作らせてもらえない。まず木造で、1スパン分、つまり柱と柱のひとマス分の見本を作る仕事を任された。

    これが大成功。北イタリアで指折りの建築家に躍り出たって言われてるんだ。

    ところでこの人、パラディオって名前から、パラダイスの親戚で、天国みたいな建物ばっかり作る人なのかなって思ってたんだよ。

    いや、違った。パラディオはあだ名みたいなもので、知恵の女神パラス・アテナにちなんでるんだって。

    本名はアンドレア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドラ。パドヴァの生まれで、お父さんは粉屋。石工として修業して、ヴィチェンツァの工房で働いてた。

    このあだ名をつけたのは人文主義者のトリッシーノだ、っていうのが有力な説なんだけど、伝記からの推定も混ざってる。その人の話は、長くなるからまた後でね。

    さて、見本が評価された設計の肝は、セルリアーナって呼ばれる形。

    真ん中にアーチがあって、その両脇を四角い開口がはさむ。この両脇の幅を変えられるのがミソなんだ。

    なんでそれが大事かっていうと、もとの建物の柱の間隔がバラバラだったから。

    建物の立場だったら、ぼくの柱、間隔ふぞろいなんだけど、見られたら恥ずかしいな、って気まずかったと思うよ。

    そこにパラディオが、大丈夫、幅を調整するから、って上から包んでそろえて見せたわけ。服選びがうまい友達みたいなもんだね。

    この形は英語で、パラディオ式モチーフとも呼ばれてる。

    ちょっと脱線するけど、この形、イギリスやアメリカの邸宅の窓にもどんどん広まったんだよ。ヴェネツィア窓とか、パラディオ窓って呼ばれてる。

    パラディオの名前がついた、パラディオ主義っていう建築様式まであって、後のジェファソンの家づくりにも影響したんだって。

    だから、どこかの古い家の窓の真ん中がアーチだったら、ヴィチェンツァの市庁舎の遠い親戚かもしれない。

    で、広間の話に戻るよ。回廊は2層のアーケードで、下の層は、パラディオが生きてるうち、1580年までにほぼ完成した。

    上の層の完成は1614年ごろ。全体の完成を1617年とする資料もあって、ここも年がそろってない。

    柱はそろえたのに、年表はそろわないんだよね。

    そして、山場はここから。1945年3月18日、連合軍の爆撃があった。

    船の底の竜骨みたいな形をした銅板ぶきの屋根が、燃えて失われたんだ。

    戦後に、木と鉄筋コンクリートで再建された。でも話はまだ終わらない。

    2007年から2012年まで大修復があって、コンクリートのアーチは、地震の揺れに強い集成材に替えられた。

    集成材っていうのは、薄い板を貼り合わせた木材のこと。しなやかだから、揺れても折れにくいんだ。

    2012年10月5日に再開館して、2014年にはヨーロッパの文化遺産賞、ヨーロッパ・ノストラ賞をもらった。

    建物は、1994年に登録された、ヴィチェンツァ市とヴェネトのパラディオ様式の別荘群の一部として、世界遺産にも含まれてる。

    崩れて、議論して、燃えて、また直して。それでも、あのキラキラの入れ物はちゃんと立ってるんだよ。

    柱のふぞろいをうまくごまかして、しかも誰にも見抜かれないまま何百年。だます技の町の、いちばんの腕前かもしれないね。みんなの家の柱は、ちゃんとそろってる?

  113. ジェファソンのモンティチェロ

    ジェファソンの自邸モンティチェロは、パラディオに学びつつ自分流に三十年改築を続けた家で、世界遺産。

    出典
    読み上げ原稿

    柱がそろってるかで思い出したんだけど、アメリカには、パラディオの本を見ながら自分の家を建てちゃった人がいるんだよ。

    アメリカ第3代大統領の、トマス・ジェファソン。その家がモンティチェロ。

    名前はイタリア語で、小さな山って意味なんだって。

    で、よく言われるのが、モンティチェロはヴィチェンツァのラ・ロトンダをそっくり真似た家、っていう話。

    丘の上に建つ別荘で、形も似てるし、名前も山っぽいし、きれいにつながるじゃん。

    でもね、ここは私、ちょっと待ったって言いたい。

    ジェファソンが古典建築の手引きにしてたのは、パラディオの建築四書。何種類も版を持ってたって言われてる。

    最初のスケッチにも、パラディオの影響は確かに見える。

    ただ、ラ・ロトンダが直接の手本だったかどうかは、研究者の間でも解釈に幅があるんだよ。

    モンティチェロって名前がパラディオの文章に由来する、って説もあるけど、そっちは確かな裏づけが弱いみたい。

    つまり、そっくり、って言い切るには、ちょっと早いわけ。

    着工は1768年。父から相続した土地に、自分で設計したんだよ。

    1770年には、まず南の別棟に引っ越して、1772年に奥さんが来た。本館より先に、離れで新婚生活を始めたってこと。

    私なんて、本棚を説明書どおりに組み立てて、ネジが3本余ったまま十年使ってるのに。

    しかもこの人、完成させて満足するタイプじゃなかった。

    フランス公使から戻った1794年から、大改築に入るんだよ。1809年ごろに大筋ができて、その後も手を入れ続けて、亡くなる1826年まで。

    西側の正面は、二階建てのポルティコ、つまり柱の並ぶ玄関ポーチの代わりに、八角形のドームを載せた。本の手本から、だいぶ自分の味に寄せたんだね。

    三十年以上いじり続けるって、継ぎ足しのカレーを毎日足して煮込んでる鍋みたいじゃない? どこからが最初の味か、もう本人にも分からないやつ。

    その後、1831年にジェファソン家の手を離れて、1834年にウライア・リーヴァイ提督が2500ドルで買った。

    1923年には、トマス・ジェファソン財団が、リーヴァイ家から50万ドルで買い取って、今は博物館として公開されてる。

    1987年にはヴァージニア大学のアカデミカル・ヴィレッジと一緒に世界遺産になったよ。ヴィチェンツァの1994年の登録とは、別なんだよね。

    手本を真似したのか、本を読んで勝手に育てたのか。丘の上の小さな山は、どっちとも言わずに立ってるんだよ。みんなはどっちだと思う?

  114. リーヴァイ提督と鞭打ち廃止

    モンティチェロを買ったリーヴァイ提督は、艦上の鞭打ちを禁じて免職され、大統領に復職させられた人物だった。

    出典
    読み上げ原稿

    2500ドルで買ったウライア・リーヴァイ提督って人、この人がまた変わっててさ。

    海軍の軍人なのに、艦の上で鞭打ちの刑を禁止しちゃったんだよ。

    1838年から39年にかけて、ヴァンダリア号って艦を指揮したときの話ね。

    これが大騒ぎになって、リーヴァイは海軍をクビになった。

    でも、タイラー大統領に復職させられて、1844年には大佐に昇進してるんだって。

    クビから大統領が出てくるって、規模がいきなり国家なんだよね。町内会でもめて首相が仲裁に来るみたいなものだよ。いや、さすがに言いすぎか。

    のちに海軍が鞭打ちをやめていく流れでも、重要な役割を果たしたって言われてるんだよ。

    廃止の年は資料によって1840年代から1850年代まで幅があるんだけど、先に言い出した人は、あとで年表に入れてもらえる。しみじみするよね。

  115. パラディオの名づけ親トリッシーノ

    パラディオの名は貴族トリッシーノが石工の青年に与えた名で、彼はJとVの書き分けも提案した。

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    読み上げ原稿

    先に言い出した人って聞くとさ、パラディオっていう名前を最初に言い出した人もいるんだよ。

    実はパラディオ、本名じゃないんだって。

    本名はアンドレア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドラ。父は粉屋だったとされてる。あの名建築家の名前は、後から人にもらったあだ名みたいなものなんだよね。

    名づけ親はジャン・ジョルジョ・トリッシーノ。1478年生まれで、ヴィチェンツァの貴族だよ。

    詩人で劇作家で文法学者で外交官。肩書きが多すぎて、名刺が冊子になりそうな人でさ。歴代の教皇たちにもかわいがられてたんだって。

    きっかけは、クリコリにあるトリッシーノ自身の別荘の改築。

    その現場で働いてた若い石工が、のちのパラディオなんだよ。貴族が、石を削ってる青年の才能に気づいたってわけ。

    改築は1537年から39年ごろとされてて、雇った年も資料によって1537年だったり1538年か39年だったりする。そこは諸説あるんだよね。

    それで、パラディオって名前は、知恵の女神パラス・アテナを連想させるものだって言われてる。

    しかもトリッシーノが自分の叙事詩に出した、天使の使者の名前でもあるんだって。

    天使が石工に転職したのかと思ったけど、違うか。叙事詩の登場人物の名前を、生きてる青年に貸しただけだ。

    さらにトリッシーノは、この青年をローマへ連れて行って、古代建築を学ばせたと伝わってるよ。

    訪問は2回とも3回とも言われてて、数え方は資料で割れてる。ローマ旅行の回数まで年表がそろわないんだよね。

    ここで、トリッシーノの別の顔にも寄り道させて。この人、文字の改革もやろうとしてたんだよ。

    1524年の論考で、IとJ、UとVを書き分けようって提案してるの。

    それまでは同じ文字が二役をやってたから、今の私たちが当たり前に使う区別につながる流れの一部とも言えるんだよね。

    Jの立場なら、ぼく、ずっとIの代役だったのに、やっと名前がもらえた、って言いたくなるんじゃないかな。

    ただ、最終的にはベンボの、ペトラルカやボッカッチョを手本にする言語観が勝った。今のイタリア語は、Jをほぼ使わないんだって。

    話を戻すと、本業の文学のほうも立派でね。悲劇のソフォニスバは、古典ギリシャ劇の規則に従った近世初の本格的な悲劇とされてて、16世紀ヨーロッパの悲劇の手本になったんだよ。

    一方で晩年の叙事詩、ゴート族から解放されたイタリアは、冷たく精彩に欠けるって評されてる。

    自分の詩の評判より、拾った石工の名前のほうが世界に残ったわけだ。

    なお、この命名の経緯は定説とされてるけど、一次史料の裏づけの強さは資料で差があるらしいよ。

    それでも、粉屋の息子が女神の名前で呼ばれて、五百年たってもそのまま通じてるのは、ちょっと不思議な気分になるよね。

  116. ベンボ書体は火山の本から

    書体ベンボは火山の本の活字が元で、1928年に復刻され、イタリックだけ別の書体が基になった。

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    読み上げ原稿

    五百年たってもそのまま通じてる、で思い出したんだけど、あの名前、いま君のパソコンの中にも入ってるかもしれないんだよ。

    書体のベンボ。本や雑誌の本文でよく見る、あのきれいなローマン体ね。

    この名前のもとになったのが、ピエトロ・ベンボが初めて世に出した本、『エトナ山について』なんだ。

    ベンボが父親とエトナ山へ旅した話を、対話形式で書いたラテン語の本だよ。

    印刷したのはヴェネツィアのアルド・マヌーツィオで、1496年の2月ごろ。ただ、刊行年は資料によって1495年と1496年で揺れてる。一般的には1496年なんだって。

    しかも、アルドが印刷した最初のラテン語テキストだって言われてる。デビュー作が、出版社にとってもデビュー作だったわけだ。

    で、この本で初めて使われたのが、フランチェスコ・グリッフォが彫った新しいローマン体。1495年ごろに彫ったやつね。この人はもともと金細工師で、金属を彫る手つきのまま活字の型を彫ったんだよ。

    火山の本の活字を、金細工師が彫る。ねえグリッフォさん、彫ってる最中に、エトナ山ってそんなに燃えるんですか、って聞いたりしなかった? 私なら絶対聞いちゃう。

    ここからが昔と今の比べ話。いま使われるベンボは、1496年のそのままじゃないんだよ。

    1928年から29年に、イギリスのモノタイプ社が復刻したもの。推進したのは、印刷史家で会社の顧問だったスタンリー・モリスン。

    どうして手を入れたかというと、機械で組む印刷に合わせる必要があったから。手彫りの活字を、そのまま機械に載せるのは、手打ちそばの太さを製麺機の穴に合わせ直すようなものだよ。

    いちばんおもしろいのはイタリック体。最初はアルフレッド・フェアバンクの案で試作したんだけど、元のローマン体と釣り合わなかったんだって。

    それで、のちに1520年代のヴェネツィア、タリエンテの書体を基にしたものに差し替えた。つまり、ローマン体は1496年生まれで、イタリックは三十年ほど後輩の血筋なんだよね。

    ただ、このイタリックの元がグリッフォなのかタリエンテなのかは、資料によって説明が違うらしい。現行はタリエンテ基準って言われてるよ。

    それでもグリッフォの活字は、のちのヨーロッパの本の活字、たとえばガラモンなんかの手本になった。書体の歴史でいちばん影響力のある設計の一つ、とまで評されてる。

    私なんて、ワープロの書体を選ぶとき、三十分悩んで結局いつものやつにするのに。五百年残る文字を一回の仕事で彫る人もいるんだよね。

    今夜どこかで本を開いたら、ちょっとだけ文字の顔を見てあげてよ。火山の話から来た顔かもしれないから。

  117. エトナ1669年、溶岩を逸らす試み

    エトナ山1669年噴火で、司祭らが溶岩の進路を変えようとしたが失敗した話。

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    読み上げ原稿

    火山の話から来た顔、って自分で言ってて思い出したんだけど、そのエトナ山には、人間が溶岩に喧嘩を売った記録があるんだよ。

    溶岩の流れを、人の手で変えようとした人はいたと思う?

    1669年の3月、シチリアのエトナ山が大噴火したのね。南の斜面の割れ目から溶岩が流れ出して、約37から40平方キロの農地や村を埋めたんだって。

    40平方キロって、私の頭の中だと地球一個ぶんくらいの気分になるんだけど。いや、地球は言いすぎだ。

    飲み込まれた村は、資料によって10から15ほどと幅がある。死者は知られていないとされてるよ。

    溶岩は4月1日か16日ごろ、カターニアって町の城壁に届いた。ここも日付は資料で食い違ってるんだよね。

    城壁が一時せき止めて、流れの一部は海に入った。一部は城壁を越えて市内にも入ったけど、被害は大きくなかったって言われてる。越えた程度にも説があるらしい。

    で、ここから本題なんだけど。固まって壁みたいになった溶岩を、道具で崩しにいった人たちがいるの。

    と、その前にちょっと三百年以上先へ飛ぶね。1983年のエトナ噴火では、爆薬なんかで溶岩の流路を変える試みが、実際に行われたんだって。

    その元祖の話に戻るよ。やったのは司祭のディエゴ・パッパラルドと、約50人。

    水に浸した牛皮を身にまとって、鉄の棒やつるはしで溶岩の壁を崩した。記録に残る最初の進路変更の試みとされてるんだって。作業した人の出身は、ペダラかカターニアかで説が分かれてるよ。

    牛皮を選ぶ場面でも、私ならたぶん三十分悩んで、結局いつものやつにするんだろうな。いや、牛皮にいつものやつはないか。

    穴ができて、溶岩の多くが西へ流れ出した。ところが、別の町のパテルノの住民が、自分たちが危ないって反発して、作業の人たちを追い払っちゃった。

    穴もふさがって、溶岩は元のカターニア方面へ戻ったんだって。

    のちに、溶岩の進路変更を禁じる法ができて、1983年まで有効だったという。

    溶岩に行き先を選ぶ権利があるなら、パテルノの人たちはきっと、選ばないでって祈ってたよね。

  118. カターニアの溶岩の象

    カターニアの広場には溶岩の石で造られた象の噴水があり、市の象徴リオトルとして親しまれている。

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    読み上げ原稿

    カターニアって聞くとさ、その町の広場に、溶岩でできた象が立ってるんだよ。

    ドゥオモ広場にある象の噴水で、黒い玄武岩の象が、高さ3メートル60センチくらいのオベリスクを背中に載せてるんだって。

    設計はヴァッカリーニで、1735年から37年ごろ。1693年の大地震で壊れた町を建て直す中で造られたんだよね。

    この象は「リオトル」って呼ばれて、市の紋章にもなってる。

    ただ、象の像そのものが古代ローマのものか、18世紀の作かは、資料によって違うって言われてるんだ。

    それにしても、溶岩に町を壊されかけた人たちが、溶岩の石で象を作って広場に置くって、すごい根性だよね。

    これ、うちの玄関にも置けないかな。背中のオベリスクに傘を掛ければ、立派な傘立てになると思うんだけど。

    いや、3メートル60センチは玄関に入らないか。

  119. セミコロンは火山の本で生まれた?

    ベンボ書体の元の本でセミコロンが使われたとされる話と、ポリフィルスなど活字の脱線。

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    読み上げ原稿

    玄関に入らないで思い出したんだけど、ベンボ書体の話で一個、言い忘れてたことがあったんだよ。

    あの書体の元になった本は、エトナ山について、っていうラテン語の本でね。ピエトロ・ベンボがエトナ山に登った体験を、対話形式で書いたものなんだ。

    出したのはアルド・マヌーツィオで、ヴェネツィアで1495年から96年ごろ。

    ここでクイズ。この本で使われたとされる記号があります。コンマか、疑問符か、セミコロン。さあ、どれでしょう。

    ちょっと考えてみて。

    答えはセミコロン。点の上にコンマが乗ってる、あれだよ。

    ピリオドほど強く切らず、コンマよりは強く区切る役なんだって。食事にたとえると、ピリオドがお皿を下げる合図、コンマが箸を持ち直す程度、セミコロンは一口お茶を飲むくらいかな。

    対等な二つの節をつなぐ記号として広まったんだ。活字を彫ったフランチェスコ・グリッフォが記号を作った、って説明がよく語られてるよ。

    ただ、諸説あってね。発明者がアルドだと断定はできなくて、歴史家のマルコム・パークスは、アルドか、その近くの誰か、って言い方をしてるんだって。初めて出た年も、1494年、95年、96年と資料でばらばらなんだ。

    私なんて、文章の途中でセミコロンを使おうとして、結局いつも句点に逃げるのに。

    さて、アルドの工房の話が出たから、ちょっと横道にそれるよ。1499年に出た、ポリフィロの狂恋夢って本があってさ。

    この活字もグリッフォ作で、1923年にモノタイプ社がスタンリー・モリスンの指揮で復刻して、ポリフィルスになったんだって。手漉き紙に刷った15世紀の印刷そっくりに、インクのにじみまで再現した書体として知られてるんだ。

    著者もコロンナ修道士説のほか、アルベルティ説、ロレンツォ・デ・メディチ説があって、確定してないらしいよ。

    相棒のイタリックはブラードで、1539年にアントニオ・ブラードが使った、ルドヴィコ・デリ・アリーギの書体が元なんだって。

    はい、セミコロンに戻ろう。約500年前の記号が、いまも現役なんだよ。私の人生を6回繰り返してもまだ足りない。いや、6回もやったら飽きるな。

    山に登った体験の本から、ひと息つく記号が生まれたって、ちょっといい話だよね。みんなはセミコロン、使ってる?

  120. ギリシャ語の疑問符はセミコロン

    ギリシャ語では疑問符がセミコロンの形で、ユニコードでは専用文字が同一扱いされ、コードの悪戯にも使われる話。

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    読み上げ原稿

    セミコロン使ってる、って聞いといて何だけど、ギリシャの人にとってあの記号は、ひと息つく印じゃないんだよ。

    現代のギリシャ語だとね、あの形の記号が疑問符なの。

    たとえば、元気、って聞くときは、ポス、イセ、って書いて、最後にセミコロンの形をちょこんと付ける。

    私たちが付ける疑問符の仕事を、あの形が丸ごと引き受けてるわけ。

    じゃあ、いつからそうなったのか。時間をさかのぼってみよう。

    ギリシャ語の疑問符が出てきたのは、8世紀ごろなんだって。ラテン語の疑問符が現れたのと、ほぼ同じ時期。

    ただ、これは百科事典の記述がもとで、詳しい経緯まではちゃんと裏付けられてないらしいよ。

    そこで素朴な疑問なんだけど、8世紀にこの形を最初に書いた人は、これ疑問符です、って、どうやって周りに説明したんだろう。しかも、まだ誰も見たことない記号を。

    その後、この記号は教会スラヴ語にも取り入れられて、形がいまのセミコロンに近いものに落ち着いたんだって。

    でね、ここからが本題。時代は一気に飛んで、コンピューターの話になる。

    1993年、文字の世界共通の一覧表、ユニコードの1.1版で、ギリシャ語の疑問符という専用の文字が作られたの。

    見た目はセミコロンそっくり。でも番号は別。専用の席をちゃんともらったわけ。

    ところが、ここに落とし穴があった。この専用文字は、普通のセミコロンと正準等価、つまり同じ文字として扱う、って決められちゃったの。

    たとえるなら、同じ顔の双子に別々の名札を付けたのに、役所の書類では同一人物って書かれてる感じ。

    実際、文字をそろえる正規化っていう処理をかけると、専用文字は普通のセミコロンに置き換わる。

    専用文字の立場になってみなよ。せっかく席をもらったのに、点検が入ったら、君は結局セミコロンだから、って言われるんだよ。

    私なら、じゃあ最初から席なんか作らないでよ、って拗ねると思う。

    なんでそんなややこしいことになったのか、って思うよね。

    これは諸説あるんだけど、当時のギリシャ用の文字コードの規格が、疑問符を別の文字として持っていたから、その互換のためじゃないか、って見方がユニコードのメーリングリストに出てるんだって。

    ただし、これは関係者の個人的な見解で、公式の説明ではないらしいよ。

    ちなみに、ギリシャ語のキーボードで疑問符を打つと、実際に入るのはたいてい普通のセミコロンなんだって。

    専用文字を打ってる人は、ほとんどいない。席をもらった本人は、ほぼ誰にも座ってもらえてないんだよ。

    さて、もう一段、話を進めるね。ギリシャ語にはもう一つ、似たような目に遭った記号があるの。

    高い位置に打つ中黒で、英語のセミコロンやコロンに近い働きをするんだって。名前はアノテレイア。これは語りだすと長いから、それはまた後でね。

    今は、この記号も普通の中黒と正準等価にされた、っていう事実だけ置いておくよ。

    字体の設計者のジョン・ハドソンは、この等価をひどく考え足らず、と評したんだって。なかなか手厳しいよね。

    しかも、ユニコードの等価関係は、あとから変えないって約束になってるの。

    だから、ギリシャ語らしい形を出したいときは、フォントのほうが文脈を見て、ギリシャ語の文章だなって判断して、字形を切り替えるしかない。

    ただ、その対応はまだ不揃いらしくて、環境によっては、ふつうの形のままになるんだって。

    最後に、ちょっと怖い使い道の話。

    ギリシャ文字のセミコロンの形は、見た目が本物と同じだから、プログラムのコードにこっそり混ぜると、文末のセミコロンと見分けにくいの。

    それで、どこも間違ってないのにコンパイルが通らない、っていう悪戯の定番ネタとして語られてるんだよ。

    ただ、細かい挙動は一般的な知識として言われてる話で、今回の出典では直接確かめられてないから、そこは話半分で聞いてね。

    1200年以上前にできた疑問符が、いまはコードの中で、ひっそり人を困らせてるわけだ。

    君のパソコンのどこかにも、実は疑問符が混ざってるかもしれないよ。まあ、気づかないのが一番平和なんだけどね。

  121. 日本語の中黒の使い道

    日本語の中黒は並列や対比、カタカナ語の区切りに使われ、近年は省かれがちと言われる。

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    読み上げ原稿

    アノテレイアの小さな点で思い出したんだけど、日本語にも似た点があるじゃん。中黒ね。

    中点とか中ポツとも呼ぶんだけど、名前の由来は、行の真ん中にある黒い点、っていう見たままなんだよ。

    使い道は大きく二つ。赤、青、黄みたいに並べたり、和と洋みたいに対比したりする区切りと、外国人の名前みたいに、カタカナ語の境目を示す区切り。

    読点の代わりに使うこともあるんだって。

    それでね、スマホだと打ちにくいから、カタカナ語の中黒は近年省かれがち、って言われてるんだよ。ただ、本当に減ったかを示す統計は、確認できてないんだけどね。

    あれ、お弁当のバランに似てると思う。なくても食べられるけど、抜くとおかず同士の味が混ざり始めるじゃん。

    中黒を抜かれた外国人の名前は、ちょっと窮屈そうに見えるよね。

  122. ローマ碑文の中点と分かち書き

    ローマ碑文の中点は連続書きで消え、語間スペースは7〜8世紀に現れ黙読も楽にした。

    出典
    読み上げ原稿

    窮屈そうって聞いて思い出したんだけど、昔の文章なんて、窮屈どころの騒ぎじゃなかったんだよ。

    古代ローマの碑文って、単語と単語の間に小さな点を打って区切ってたんだって。見た目はほぼ中黒なんだよね。

    ところがその後、ギリシャ語もラテン語も、語の間をまったく空けない書き方が主流になっていくの。点もなし、すき間もなし。

    やめた時期は資料で食い違ってて、2世紀って書いてあるブログもあるけど、確かな定説ではないんだって。

    で、語の間にスペースを入れる習慣が出てきたのは、7世紀から8世紀のアイルランドとかアングロサクソンの聖書からって、一般には言われてるんだよ。

    つまり人類は、点からすき間まで、600年くらいかけて遠回りしたことになる。いや、私が部屋を片づけて元の配置に戻すのと、規模は違うけど似てるな。

    ちなみに、そのスペースのおかげで、声に出さずに黙って読むのも楽になったと言われてるんだって。